石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第四章 美術工藝

第六節 刀工

右の文書には尚越中高岡住五左衞門清光・同國石動住忠兵衞義水二人を載せたれども、今之を省略せり。而して加賀刀工十四人に就きて見るに、勝國は伊豫大掾の孫にして、その子勝國以後技倆次第に庸劣に傾くも、尚能く明治期に入りしが、兼若はその子助太夫兼若の逐電によりて退轉せり。國平は二代家平と同人、家弘は二代國平にして、陀羅尼の分派洲崎家忠の直流に屬するものとし、子孫文政の頃に及ぶ。家忠は寛文以前の名を繼ぐと雖も、實は洲崎氏の一傍系に過ぎずして、且つ後系なく、幸昌は藤島流なりとすれども實は信友派の門人系にして、陀羅尼に入門せしこともあれば、寧ろ之を陀羅尼の分流と見るべく、甥包廣以後刀系なし。光平も亦陀羅尼の分系にして、その子孫家業を廢せり。勝家は初代泰平の前名にして、孫泰勝・泰定の後業系を缺く。清光二人は長く統を傳ふ。信友は信國流に屬する獨立移入派なるも、その遠祖が甞て行光に師事したる關係より藤島流と稱したるなるべし。この鍛壇は時々斷續したるが、孫太助信友の失踪によりて遂に退轉し、その裔信政は二代泰平の指揮を受けたり。而して兼卷も亦孫喜三郎が能樂の囃子方となるに至りて退轉す。之を要するに關系には既に炭宮氏を失ひ、兼若派と兼卷派とは蓑滅の前期に屬し、兼久派は當時停壇し、獨陀羅尼系清光系とのみ永く統を垂れしものにして、之を寛永・寛文期に比すれば人員も半減し、業態の不振も前記答申書によりて察すべく、且つ今日遺存する作品極めて僅少にしてその品質著しく低下し、鑑賞に値するもの一刀もなしといふも決して過言にあらざるなり。