第四章 美術工藝
第二節 陶磁
天保中羽咋郡梨谷小山村に陶器を製せしことあり。同五年寺井の庄三西性寺の僧了照の爲に招かれ、こゝに駐りて土燒に著畫すること一年、鹿島郡井田村の明傳寺も亦協同出資せり。この年庄三が火打谷の山中に黒色顏料を發見せしことは前に述べたるが如く、六年閏七月兩寺は藩に對して、貧寺小庵自ら支ふること難きが故に、内職として火打谷の呉須を使用し、製陶に着手したることを屆出でたり。然るに藩は、寺院に於けるこの種の營業を以て製陶業者に害ありと認めたるが如く、七年二月兩寺の樂燒を製して賣出すことは妨げざるも、土燒を作るを禁止すと令せり。是に於いて兩寺は再び出願して土燒の製造繼續を許可せられしが如く、七年十月製陶の成績佳良なるを以て冥加銀二枚を上納せんことを上申したるを見る。その販路は伏木・宮腰・敦賀・大坂に及びしが、後代價の回收意の如くならず、爲に安政元年冬に至りて業を廢せりといふ。
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