石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第四章 美術工藝

第二節 陶磁

木米金澤を去りたる後に於いても、春日山窯は尚衰勢ながら存續し、先に木米に從ひて技を習ひたる本多貞吉越中屋兵吉任田屋徳右衞門等その業に勉めたりき。然りといへども此の年兵吉は十九歳、徳右衞門は十六歳にして、尚一個の熟練職工たらざりしが故に、工場の經營は正に知命の齡に達したる貞吉の指揮監督に屬したりしなるべく、而もその後三年にして貞吉は能美郡若杉窯に從事したるを以て、春日山窯はその中心たるべき人物を失ひ、纔かに窯元名義たる松田平四郎によりて之を維持することを得たり。但し平四郎は素より純然たる商人にして、餘技として少しく製陶を弄したるに過ぎざるが故に、その兼營する工場の萎靡振はざりしは當然なりといふべし。かくて、春日山燒の作品に『文化十酉孟冬帝慶山製』と記したるものあり、又松田平四郎の陶器總録と題する手記に、『文化十年酉六月窯甚宜布出來の加減也。』といひ、或は『文化十一年戌の年より改む。』の記事あるによりて、その頃尚製陶の行はれたることを知り得といへども、文政四年加賀藩の觸書に『春日山於陶器所、當分人形芝居申付候間、川上新町芝居座掛り肝煎共右場所も相兼、右地面裁許肝煎昌次郎申談主付可相勤候。』とあるは、製陶工場を芝居小屋に代用せるものなるが故に、春日山窯は文化十一年より後、文政四年より前に廢滅に歸したるものたることを斷じ得べし。