石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第四章 美術工藝

第二節 陶磁

文中に井成昌・邑盛照といへるは、共に當時の金澤町奉行なり。井成昌は井上井之助にして、寛政十二年四月朔日歩頭より町奉行に轉じ、文化三年四月十八日定番組頭並學校御用に移る。井之助が歩頭たりし時の名は成昌なりしも、町奉行となりて直昌と改め、定番組頭となりて再び正昌に改めたり。邑盛照は、嵒盛昭の誤にして、岩田傳左衞門なり。文化元年七月十三日組外番頭より町奉行となり、七年十月六日馬廻頭に轉ず。世に之を村杢右衞門なりと解するものあれども、杢右衞門の諱は陳救にして、享和三年町奉行となり、文化元年小將組頭に轉ぜり。而して碑文中の文化乙丑は二年なるが故に、その岩田傳左衞門なること疑なし。龜田喜とあるは、純藏が田善ともいへば喜字は善字の誤なるベし。喜左衞門かとも思はるれども彼は坊長にあらざるなり。又津正鄰は津田左近右衞門政隣の初諱にして、文化三年を以て町奉行となり、大に春日山燒奬勵したる人とす。政隣自家の記録たる政隣記中に、文化五年金澤年寄の具申書を採録す。先の箕柳碑文と相待ちて、春日山開窯の由來昭々として掌を指すが如きを見る。

 文化五年
 前々金澤大樋等<漢1>ニ樂燒類は致し來候得共、唐津・今里等の如き堅燒は不致に付、當用之雜器之品一切他國より入來、剩遠路之運送には駄賃等加り、此代料他國に洩れ候高年々積り僕候ば過分之事也。于時近年尾州等にも燒物竈企候處、最初は彼是不充分候得共、追付段々手に入候上、追々宜き器物出來、當時にては永久之國産に相成、隨而國中職人工商賃持之輕き者に至候迄、右器物而已にて致渡世者多旨に付、去々年於町會所僉議仕、何卒金府にも右之品御國産及出來候者、年々無際限他國えの洩金も當府に止り、就中貧賤之者共土穿り賃仕事に爲働候者、下々之潤色にも可成事に付、京都粟田口陶器師青木佐兵衞と申者、陶器一件に委く候由に付、内分樣子爲承合候處、土之躰相試、用立可申土に候得者、可出來旨申に付、去々年寅之年九月、右佐兵衞儀當府へ呼下し、先年陶器致出來大聖寺九谷之土取寄、當府茶臼山の土を主として、先試に卯辰山瓦師平兵衞所持之瓦竈に而少々爲燒候處、無異儀出來、則其節入御覽にも。依是佐兵衞一先歸、重而去年四月呼下し、近山より追々宜き土出候に付、山之上村領に致中絶之瓦竈三ヶ所有之を、地面引受候而陶器竈に爲造直候處、去秋雨天續土乾不申、漸十一月始に爲燒候處、新竈に而土氣濕り等全拔不申ながら、南燒に似寄候品も出來、則相公(治脩)樣にも入御覽候處、御好を以品々被仰付、並年寄中等之内よりも誹物有之候處、夫々相應に出來。右樣子に付而は、竈も全乾き、職人も追々手馴候はゞ、畢竟御國産にも可相成、然上は上品な兎も角も、先以常用の皿鉢類雜器等は、他國より不取寄<漢1>ニ、當府にて可相辨也。就夫前條之九谷之土取寄候而は、遠方に付費懸り候間、右に代り候土無之哉餘穿鑿之處、能美石川兩郡之山に而土見付。依之九谷より不取寄<漢1>ニ、御領に而澤山に有之、其藥土等出候ヶ所左之通。
 一、能美郡瀬木野村・勘定村。
 一、石川郡別曾(別所)村・三子牛(三小牛)村。
 一、河北郡山上村・卯辰村・二俣村。此分色白き石にて南燒類製し候土に加へる。
  藥土石之分
 一、瀬木野村土中より出候白石藥に用。
 一、三子牛村・別曾村土中より出候塊石藥に用。
 一、卯辰村土中より出候塊石藥に用。
 一、竈場所之内より出候赤土藥に用。
 一、椿之灰。松之灰。此分落葉を用。竹之灰。此分桶職之者細工に用立候屑を用。堅木之灰。此分紺屋共用立候灰之垂糟を用。堅炭灰。此分湯風呂屋共用立候炭之灰を用。
  右之外粉具之分は紅柄・緑青・唐之土・硝子之粉。
 一、呉州。藍繪に用。
 右之通當時用立候土藥共、都而御國産に而相濟、猶又追々宜き土等出候得ば用之筈に候事。
〔政隣記〕