石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第四章 美術工藝

第一節 繪畫

同じ頃畫名を京師に顯しゝものに岸駒あり。姓は佐伯、岸氏、駒はその名、一名昌明、幼名乙次郎、字は賁然。華陽・同功・可觀堂・虎頭・天開窟・鳩巣棲・專蘭齋等の數號あり。父豐右衞門金澤に在りて裁縫を業とし、母は越中東岩瀬の人なり。駒寛延二年三月十五日を以て生まれ、幼にして敏悟繪事を嗜む。年十二にして出でゞ染家の奴となり、三年にして巧に徽號花樣を描けり。稍長じて鍵助と稱し、畫を賣りて自活し、父の喪を終へてに上る。時に年二十五なり。既にして名聲漸く高し。嘗て佛光寺の裱〓に描くや、有栖川親王之を觀て激賞し、命じて雅樂助と稱せしむ。後朝廷之を主殿大屬に任じ、文化元年越前介に進めらる。同五年正月金澤城火あり、明年四月に至りて再造の功を竣ふ。藩侯前田齊廣幣を厚くして駒を召す。八月駒、男岱及び門生村上健亮・齋藤霞亭・松本文平・望月左近等を率ゐて下り、殿中の障壁に描く。これ眞に故郷に錦を飾りしものにして、駒の得意想ふべく、その行裝の甚だ盛なりしことは之を前編に記せり。駒金城に在ること五月にしてに歸り、岱等は尚留りて設色し、翌年九月に終る。天保七年十二月駒積勤の功を以て藏人所衆となり、從五位下に叙せられ、越前守に任じ、九年十二月五日歿す、年九十。洛中本禪寺に葬る。駒門下に接する峻嚴、且つ厚謝を得ざれば筆を採らず。是を以て往々世の惡評を受く。然れども骨肉に厚く、その母を省せしとき、兄彌左衞門が父の業を襲ぎて生計頗る困難の状あるを見、白二貫目を資して仕を藩士玉井貞運に求めしめき。