第三章 學事宗教
第十節 佛教
藩政の初期に當り、豪僧常樂院日經の加賀に下りしことは、特筆に値すとすべし。日經は上總の人、慶長十三年秋尾張に在りて本迹勝劣の義を唱へ且つ他宗を誹諦せり。是に於いて淨土門の徒彼を憎みて攻撃を加へ、事體甚だ紛糾するに及び、増上寺の源譽は家康に訴へ、江戸に於いて法論を開き以て是非を決せんとせり。既にして期定りしが、この朝淨土宗の徒等日經を襲ひて毆打し、半ば死せる者の如くならしめしかば、日經は城に上りしも伏したるまゝ言ふ能はず。因りて直に法問に敗ると斷ぜられたり。後日經之に服せず、未だ問答せずして勝敗あるべき理由を見す、此の如き裁決は大理不盡惡賊の國主にあらざれば爲さゞる所なりと讒謗せり。家康乃ち日經を以て罪を重ぬるものなりとし、翌年正月護送して京師に至らしめ、二月二十日六條河原に於いてその耳と鼻とを斷ち、門下五人もまた劓刑に處せられしが、その中日玄は傷重くして遂に死せしも、日經以下他の四人は醫藥によりて癒ゆることを得たり。是より日經の意氣益々軒昻、以爲らくこれ法華經の金言に適ひ、祖師横難の遺蹟を繼ぐものなりと。而して日經の足を停むる所直に驅逐せられしを以て、若狹・越前を經て加賀に入らんとせしに、前田利常の老臣三輪志摩長好京師よりの歸途之に會し、日經の面貌甚だ醜惡なりといへども、氣骨稜々侵すべからざるものあるを見、迎へて之を金澤の妙法寺に置き、その所説を聞くに及びて益々敬服せり。乃ち爲に一寺を創立して本覺寺と號す。既にして長好、幕府が日經の踪跡を追窮すること甚だ嚴にして、累を藩國に及ぼさんことを慮り、諭して之を去らしむ。日經因りて越中に入り、藩臣村隼人の歸依を受けて富山に正顯寺を興し、後城外數里の山村に隱れ、世臘七十を以て寂せり。今その所を鼻缺山といふ。或は曰く、日經は本覺寺に往生せしなりと。日經の北陸流浪と藩臣三輪長好との關係に就きては、京都妙滿寺藏の常樂篇に之を載せたり。常樂篇は文化六年日延の著す所に係る。
然後加州に下向し給ふ騨路にて、加州之老臣三輪志摩守殿、其比京都に御使被レ勤、歸國之道中に行逢給。志摩守殿[一萬石にて太守之 利常公乳兄弟他。]乘輿の内より經師之行脚之躰を見受給ふに、耳鼻なしといへども尋常ならぬ相貌なるを、怪尋させらるれば、師有の儘答給。依レ之三輪氏旅宿にて對面在て大に歸依し、夫より直に金澤迄同道有し也。三輪氏者法華宗門にて、泉野寺町妙法寺開基旦頭也。[俗に太鼓妙法寺と云。同 寺號二ヶ寺ある故也。]則自二三輪氏一添へ使者在て、件之妙法寺え令二經師<漢1>ヲメ漢1>寄宿一給也。仍て於二右<漢1>ノ漢1>寺一興二行説法一<漢1>テ漢1>ありければ、貴賤群集夥しく、且つ授法する者毎日幾百人と云事不レ知二其數一<漢1>ヲ漢1>、三五日の内及二<漢1>ベリ漢1>于四五千人一<漢1>ニ漢1>と云々。于レ時野田寺町に宗門之寺院二十箇寺計有レ之處、聽二<漢1>テ漢1>經師之本迹<漢1>ノ漢1>法談一<漢1>ヲ漢1>而日々離旦する者數多なる故に、各怨嫉して右妙法寺え爲レ致二日經止宿一間敷、尤説法堅<漢1>ク漢1>可レ爲二無用一也、若無二<漢1>クンバ漢1>承知一則可レ除二宗門仲間一と申懸し故に、不レ<漢1>メ漢1>得二止事一<漢1>ヲ漢1>右の寺より三輪氏え斷申達しければ、志摩守殿大に腹立あつて宣ひけるは、抑其の寺者我建立之菩提寺也。然るに餘寺に黨して不二<漢1>ルノ漢1>日經於差置一事不埒也。何んぞ初申入るゝ節肯ける耶。從二今日一離檀<漢1>シテ漢1>建二立一宇一<漢1>ヲ漢1>開二祖<漢1>トメ漢1>於日經一可レ<漢1>シトテ漢1>爲レ致二安住一、引二取經師一<漢1>ヲ漢1>、則泉野の上に六斗林と云處の野中に三輪氏隱居屋敷一萬坪之地面ありしを寺地として、以二一ヶ年之租税一一寺を建立し給、今の本覺寺是也。且志摩殿者太守之爲二愛臣一故、御寄附有レ之、寔善盡美盡せり矣云々。于レ時加州者、太守の御菩提所之外は諸宗共觸頭而已年頭目見に登城有レ之、餘寺者一ヶ寺も無レ有二登城一也。然るに本覺寺者于二能州瀧谷妙成寺一並んで、[妙成寺は加越能三ヶ國の觸 頭寺領百石之御寺之内也。]而八箇寺[京寂光寺末上行寺末各一ヶ寺、 川原本正寺末六ヶ寺合八ヶ寺。]之録所觸頭なる故登城ありし也。左れば諸宗とも、諸願悉く觸頭名宛にして奧印無レ<漢1>ハ漢1>之奉行所え不二<漢1>ル漢1>取擧一也。[妙成寺は遠路なる故、宗門の諸寺は、金澤卯辰經王寺と云ふ寺看守持にして、妙成寺通 所として、妙成寺役僧として取扱、五十石にて御寺之内也。諸願奧印經王寺にて相濟。]于レ玆慶長之比、太守之姫君(マヽ)玉泉院と申あり。[予案ずるに宇喜多秀家 公室の誤ならん乎。]本覺寺御信仰にて常々御參詣ありし處に、彼館より遠路なるが故に近き處へ可二<漢1>シ漢1>引移一と宣ふ故、所々見立仰付けれども宜寺地とすべき地面無レ之、今の本覺寺の地五千坪計<漢1>リ漢1>明地あり。殊に往來筋にて、[六斗林の内なれど も十町許近ゆゑに]先此所に引越て可レ然、地面有レ<漢1>ハ漢1>之又復御易へ可レ被レ下とて、右玉泉院樣より御引移し被レ下しと申傳る也。[本の本覺寺の跡は野中畑となり、然れども松の木十本計見ゆる也。俗に其處をほ ふじよう屋敷と云ふ。是は三輪氏隱居法號寳壽公と申故、寳壽屋敷を訛て爾申也。]又玉泉院殿より稻荷之社壇本覺寺に御預にて、神供料毎歳三十俵五斗俵之御附有レ<漢1>シ漢1>之と也。然る處に何れの代成らん、京本正寺と[經師の開基は本 正寺末多し。]本末之公事諍論在て大騷動也。出入六ヶ年にて落著せり。其内住職遷化するにや、三四年は無住なりければ、觸下の八ヶ寺入院退院等之諸願差支故に、觸下を放れ皆屬二<漢1>スル漢1>妙成寺配下一也。依レ之玉泉院殿より御預之稻荷も、永無住にて大門閇て在レ之故、參詣神事執行しがたき故御取上にて、泉寺町[寺號 失念]他宗の寺内え御預、神供料も同前也。亦觸下無レ之故に、倶に妙成寺下に附き成二平寺一<漢1>ト漢1>也。公事落著者總州宮谷[談林 也。]鳳凰寺之預りにて、妙滿寺客末となりしが、今は全く妙滿寺末にて受二指麾一也。さて〱不運之事ども令二時<漢1>ノ漢1>然一處ならん。[于今形の殘りしは、金澤中宗門の寺院大會之節音樂興行するには、必瀧谷に願ひ樂器を借り樂人を 頼むと也。本覺寺計勝手興行する也。尤樂器は宜什物あり。故餘寺に用るにも本覺寺之借用と屆迄也。]右開闢者慶長年中也。二代者經師之弟子忠善院日胤上人と申也。さて經師者、本覺寺建立後越中富山之府に趣玉ふ。 〔妙滿寺藏常樂篇〕 自二日經一賜二三輪殿一書之事
抑も此假名抄は、我等法華經に而打擲の大難を蒙り、京都にて及レ加二刀杖一者の經文に首尾を合せ、又如二金言一<漢1>ノ漢1>數々見二擯出<漢1>ノ漢1>法難一廿七箇所、經王の文に叶ふ事を喜べども、法難疵起り、煩氣に手も振ひ物も不レ書候へども、三輪志摩守殿、日本の國主御所の相手に成り申候某を抱へ置き、剩へ本迹勝劣の法門を聞屆、迹門一致を捨て、日蓮聖人正義の本門修行の勝劣に歸伏せられ、亦日本國の諸法華宗、釋尊の金言之付二法難一、御所の隨二御意一、念佛無間の證文、法華經の文と與レ<漢1>ニ漢1>釋無しと、増上寺と申す淨土の寺に判木におこし、末代の爲とて秘藏する由申候。然らば都鄙の法華の智者上人日蓮、一期の大小の難に値て、命に替て立給の念佛無間の法門を、我々身命を惜しまず書物を致し大謗法無間奈落無レ疑。源毒水なれば流も亦毒水と定られ候へば、末寺末山までも大謗法と成るに、志摩守殿、此大謗法の寺を思ひ切て、本迹勝劣の法門を望せられ候儘、御信心を感じ入て煩氣の苦勞をかへりみず、法門證據註文不都合ながら荒々書記し進じ候。小姓衆殿原達其外何も透々に能々讀み聞せ、一人宛も引き入られ候へば、本門三箇の大秘法をば佛末法の爲に殘させ給ふと遊したる御書の如んば、末法今時必ず弘る法門なれば、廣大無邊の御功徳を取給ふべし。南無妙法蓮華經、南無妙法蓮華經。 慶長十八年癸丑霜月十三日、加州金澤三輪志摩守殿信心強盛故進レ之畢。 〔常樂院日經上人消息〕 |