石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第十節 佛教

内に於ける時宗寺院には、唯一の玉泉寺あるのみ。玉泉寺はもと越中富山に在りて淨禪寺といひしもの。その社殿に菅公を祀りしを以て、前田利長之を崇敬して慶長十六年高岡に移らしむ。利長の薨後、元和三年利常は又之を金澤泉野の地に遷らしめ、利長の後室玉泉院夫人も深く之に歸依せり。是を以て夫人の歿後、寛永六年その七回忌を淨禪寺に營むに當り、寺號を玉泉寺と改め、其阿南水をして別當たらしめ、法樂の爲に天滿宮に月次連歌を興行して家運の長久を祈願し、依りて連歌料として毎歳米十二石を寄進す。その後天滿宮寛永九年十一月燒失せしを以て假殿に之を奉祀し、慶安二年には南水遷化して南桂之に代る。之より先寺地を轉じて大にその規模を擴張せしことあり。三壺記等の諸書之を承應三年に係け、明年玉泉院夫人三十三回忌に會するを以て、三千歩の地を三間道に賜ひ、神殿佛堂並びに之を新造し、寺領六十石を附すといへり。しかも寛文七年南桂の作れる天滿宮棟札裏書によれば、かの神殿が寛永九年に罹災せる後、假殿荒廢して見るに忍びざるものあり。即ち屢に請ひ、今年を以て纔かに重修の成れることを言ひ、その間に決して轉地新造のことを述べず、却りて寛永六年に『有旨重尋縁起寺基』と記せり。乃ち知る、その三間道に移れることの玉泉院夫人三十三回忌の際にあらずして、七回忌の時寺號を改め、連歌料を寄進せると同時に在るべきを。三壺記の記載詳密を極むといへども、内容に誤謬甚だ多し。

 天滿大自在天神者。其先出天穗日命。而菅原美稱。依地爲姓矣。天慶之間。神託文子右近馬場。天暦年中移立祠于北野。此乃吾國廟祀之始也。已而國人爲崇。無處不祭。祭則靈感甚新。昔建武元甲戌年。畠山卜三相攸於越中富山。恭建菅廟祭事矣。其後加越能三州使君利長公。讓于舍弟。退隱越之中州。公乃菅公之裔也矣。夫人永壽大姊。亦奉神甚勤。由是遷宮於高岡之城。賢夫婦同敬神威。實當慶長十六年辛亥也。當社之起本良有故哉。又命利常曰。菅神者吾家之宗祖也。宜于金城以鎭國家元和三丁巳之秋。擇地於泉野。鳩工營構。不幾月而宮成矣。即卜十一月十五日鎭座焉。請六神相殿。時淨禪十二世其阿和尚。有神佛兼修之譽。命之兼別當職。住廟邊小寺寛永六己巳年二月朔日。有旨重尋縁起。廣寺基。名改玉泉寺。令南水比丘爲開山第一祖。神事法樂月次連歌。菅廟稱日域詩歌之神。故毎月連歌以祈當時。同九年十一月念八日神殿回祿。靈像如本。職主驚異遷于假殿。屢奏再造於國主。時國務甚繁而未果。至正保年中。黄門利常公神像一幅安于假殿。乃菅神之自畫而羽林光高公之平日所珍敬也。慶安二乙丑年命南桂住持神職。寛文二壬寅年八月廿四日。又勸請玉津島明神而添舊相殿。同日宰相殿天女殿左右鎭座。亦老松紅梅二神安于相殿。寛文四甲辰年。勸請稻荷大明神於別社雨寶堂。八幡大菩薩爲相殿也。今至丁未之春綿歴星霜。殿階荒廢。山僧目觸心慘。不自己修造。謀重造於太守綱利公。乃使工以鼎新焉。三社並鎭守不日而成。其材不必文木。欲堅而傳久遠。其宮不必鉅麗。欲嗣而易修覆。太守之慮周而遠哉。恭惟菅神垂迹於上古。遠護後裔。太守存誠於今日。克敬祖神。人又感。宮殿大成。山僧當其架梁之日。欽考當社之顛末。以記棟札之裏面。伏願皇帝叡筭越於恒沙。家國相承。祿壽齊天地。五穀益豐饒。萬姓日康樂。寛文七丁未之秋八月五日。現住玉泉二代其阿南桂謹題焉。
〔玉泉寺天滿宮棟札裏書〕