石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第十節 佛教

明治元年六月太政官は、百事改革の期に際し、總持寺が元來永平寺より分派せるものなるを以て、總持寺に於ける五院輪番の住職制を廢して獨住を選擧せしめ、總持寺の獨住寺主より總本山たる永平寺に昇任せしむべしとの法を定め、以て一宗門内の統一を企畫すべきことを命じたりき。是に於いて總持寺は、來七月恰も輪番改任の期に當り、太政官の趣旨を末派寺院に貫徹せしむるの餘裕を缺くが故に、之が實行の期を緩にせんことを講ひ、次いで八月備さに總持寺沿革を述べて、舊の如く之を本山たらしめ、末派寺院を統轄するの制に復せんことを歎願せり。太政官乃ちその要求を容れ、二年十二月總持寺永平寺とは之を兩本山たらしめしが、啻り主僧に至りては之を獨住とすべきことを固執せしを以て、總持寺も亦遂に之に服し、三年七月旃崖奕堂禪師號を拜受し、天顏に咫尺して皇恩の辱きを謝せり。然るに太政官は、四年五月再び總持寺輪住制を復するの命を發したりしかば、今回は總持寺より時勢の變遷に件ひ、輪住を勤務するものが財政上の困難を來し、且つ住持の本山に在る間自院の役務を執る能はざる所以を述べ、以て獨住制の繼續を希望したるに拘らず、政府は之を峻拒するの奇觀を呈したりき。而も一派内の實情は到底政府の命に盲從すること能はず、政府も亦敢へて之を強行せざるべからざる理由を有せざりしを以て、奕堂は引續き一山を引率し、總持寺五百年間の輪住制こゝに全く罷むに至れり。

                               總   持   寺
 當寺儀賜紫衣、直に參内出世本寺の儀に候へども、元來永平寺の別寺に候へば、甲乙の廉顯然に候間、今度御一新の折柄、是迄輪番住持相止、宗門碩徳の僧を爲擧佳職、同寺より祖師開闢總本寺永平寺へ昇任玖し、總本寺と爭立の念慮を相忘れ、專宗門振起教化を以て可旨被仰出候事。
    六    月(明治元年)
〔石川縣文書〕
       ○

  乍恐奉歎願候。
 當六月六日被仰渡候御旨、謹而奉恐承候得共、何分總持寺立行、末派一同驚嘆至極に奉存候。猶又不御恐、御由緒總持寺先格之次第別册奉御尊覽候。何卒出格之御仁政を以、總持寺儀も總本寺、末派宗制等先格之通被仰付下置候樣、伏而奉仰願候。以上。
    慶應四年戊辰八月              能登國  總   持   寺
〔石川縣文書〕
       ○

 一昨己巳(明治二年)十二月兩本山故、各其末寺取締違亂無之樣可致旨更に被仰出候節、當寺從來輪番持之處、向後碩學知識のものを擧て住持たらしむべく旨被仰出、則昨庚午(三年)七月當住奕堂官命、佳職宣旨並禪師號宣旨拜戴仕、御禮參内天顏拜、先蹤に依て蒙勅許、本末一同難有奉戴仕候。然る處去る(四年)五月輪住に被復候旨被仰達候に付、從前輪住勤仕之寺院え相達候得共、右輪住出勤之寺院多は朱印地或は舊諸侯の牌所等にて、方今一般上地被仰出、且舊諸侯の扶助も相絶、旁以各自の經營する窮迫之秋に至り、今後輪住之策難立趣を以、末派寺院往々歎願申出候に付ては、一旦被仰出候御主意も御座候間、何卒獨住職に被据置下候はば、本末一同難有奉存候。此段御許容被成下候樣宜御奏奉願上候。誠恐謹言。
    明治辛未年十月              總持寺役局  大   寧   寺
      金 澤 縣 御 廳
 獨住之儀(指令)は難聞屆
                         大藏大輔  井  上  馨
                         大藏少輔  吉 田 清 成
〔總持寺文書〕