石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第十節 佛教

加賀藩曹洞宗が活氣頗る横溢せる他の一原因は、能登にその大本山總持寺を有したりしに因る。思ふに總持寺永平寺とは、元來共に高﨟耆宿に對して出世轉衣を朝廷に稟請するの慣習を有したりしなり。然るに明應以後、總持寺の門末にして永平寺に於いて出世の儀を擧げ、恣に紫衣・黄衣を着くるものあるに至りしかば、總持寺永平寺の勢力を増大せんことを恐れ、天文九年之を停止すべき綸旨を降し給はんことを請ひて能くその目的を達したるのみならず、天正十五年大透圭徐の斡旋により前田利家の命を以てその堂宇を再興し、十七年更に總持寺出世道場たることを認められたる綸旨を得たり。是より兩寺の間常に爭議の絶ゆることなかりしかば、家康の治を布くに及び、曹洞宗寺院を二分して相頡頏せしむること恰も東西本願寺の如くならしめんとの政策に基づき、兩寺を共に出世道場たらしめ、當住賜紫の特典を享有すべきことを規定せり。是を以て總持寺諸法度元和元年七月を以て發布せられ、翌八月には加賀藩も亦之が附則を作り、正保二年後光明天皇綸旨によりて同じくその地位を保證せらるゝに至れり。かくの如く總持寺が、江戸幕府創立の際本山の一たる資格を享有せしは、素より家康の方寸によりて決したる所なりといへども、亦加賀の桃雲寺主にして家康宗教顧問たりし泰山雲堯の與りて力ありしによるといはる。是より總持・永平の二寺は互角の勢を以て對峙したりしを以て、屢爭議を釀して幕府の公裁を仰ぐに至り、有司をしてその裁量に苦心せしめしこと亦尠からず。この時に際して總持寺の敗訴は即ち加賀藩の威信を傷つくる所以なりと解せられたるが故に、藩吏等或は幕府の當路に交渉し、或は資財を散じて彼等の歡心を求め、常に永平寺をして總持寺の後に瞠若たらしめたりき。されば總持寺交通の不便極りなき能奧の僻陬に在りしに拘らず、能く勢力の大を致しゝ所以は、固より瑩山紹瑾・峨山紹碩等の宏才偉徳相繼ぎて之を董したるが爲なりといへども、特に藩治時代を通じて儼然たり得しもの、實に前田氏の威武常に之が後援をなしゝに因らずんばあらざるなり。