石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第十節 佛教

眞言宗に在りては、社僧の多數がこの宗派に屬したりしが故に、藩政時代に於いても尚金澤の寶幢寺の配下に屬するもの二十八ヶ寺、波着寺に屬するもの六十五ヶ寺を數へ、明王院は越中にのみ觸下を有したりき。而して河北郡の長樂寺・鳳至郡の寶泉寺・珠洲郡の法住寺は古刹たる故を以て、羽咋郡の安養寺は戰國の豪族得田氏の守護神たる森山熊野社の社僧たる故を以て、同郡の成喜坊・遍照坊・大福寺及び金澤の永久寺は前田利家の尊崇せしものなる故を以て各寺領を有し、寶幢寺・波着寺・明王院も亦頭寺たるが故により祈祷米を受けたりき。この外能登の一宮たる羽咋郡氣多神社に四ヶ寺の眞言社僧ありて、何れも寺領を給せらる。又鹿島郡の石動山天平寺は、天正十年能登の舊族温井景隆・三宅長盛を援けて前田利家に抗したるを以て、一山焚掠の禍を受けたりといへども、翌十一年十月正親町天皇綸旨を奉じて利家の之を再營するあり、次いで十九年には所領寄進せられ、慶長二年堂塔悉く成就するに至れり。その後山内七十二坊中十四坊は退轉したるも、尚儼然として一方の重鎭たる形勢を有し、社領百五十石の外、能登越中二國より軒別に初穗米を徴收し得べき特權を與へられ、以て明治二年之を禁止せられし時に及べり。石動山初穗米は、往時に在りては家並三升と稱へられたるも、末に至り二升に減ぜられしが如く、その嚆矢の何れの日にありしかは、今之を詳かにすること能はず。案ずるに、越中二上山養老寺が武運長久國家安全五穀成就を祈願すとの理由を以て、同國四郡より知識米を徴することを前田氏許可したるは、慶長十五年利長の時に在りしが故に、天平寺も亦同じくこの前後に始りしものゝ如し。後利常の時、寛永二年に至りてその制法式目を定めらる。
石動山天平寺制法式目
 一、修崇神社祭禮勤行等不怠慢事。
 一、禁中御卷數抽精誠、毎年可奉納之事。
 一、堂塔大破所、從往古有來、廻諸國勸進之方便、可建立。付、神領執(收)納分際修理事。
 一、不老若徒黨、以私之宿意如衆議、或掠實儀或妨正路之族於之者、可惣比丘之沙汰。然則罪科之輕重、以衆評之上相究候事。
 一、頃年衆徒之爲躰及見聞候處に、不机上塵、不學窓下に螢雪、專別業所作乏旨破戒無慚至極、自今以後不老若祈祷讀經本意之事。
 一、猥亂行之僧於之者被穿鑿、以落著之上古法沙汰事。
 一、當山執行在廳山目代先規定置、諸職猥無樣に可裁許事。
 一、寺中諸作法之儀、一山評定不依怙贔負、衆議可相調事。
 一、山林竹木猥不伐採。付、其坊之支配之末寺並屋敷方諸檀那等可先規事。
 一、罪科人寺中抱置事。
 一、權大僧都法印空照、大宮坊住持之事從亞相・黄門之御時以來別當職任定置、當山之諸沙汰可裁許事。
 右條々不違背者也。仍如件。
    寛永二年四月二十五日                  源宰相松平筑前守利光
     天平寺衆徒中
〔慶長以來御定書〕

石動山天平寺古圖 鹿島郡越路村廣田嘉四郎氏藏