石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第八節 科學

黒川良安、諱は弼、號は靜淵、後に藩侯より自然の號を受く。父玄龍は越中新川郡大榎木村に住して醫を營み、文化十四年二月良安を生む。文政十一年玄龍四十一歳にして長崎に學び、良安も之に從うて蘭語を通詞吉崎權之助に受く。天保五年玄龍業を了へて歸りしも、良安は尚止りて醫をジーボルトに習ひ、曾て燐の製造法を發明せり。十一年八月良安國に就かんとして金澤を過ぎ、長谷川猷周旋によりて青山知次の家に仕へ、祿五十石を受けしが、翌年大坂の緒方洪庵の勸誘に基づき、江戸に出でゝ坪井信道の門に入り、頭腦の解剖を試みて人目を驚かせり。この間に松代の佐久間象山と相識り、遂にその家に寓して蘭語を傳ふ。象山推稱措かず、即ちに勸めて之を祿せしめんと謀る。しかも加賀藩に在りてはかゝる人材を國外に出すを欲せず、弘化三年知次は前田齊泰に請ひて之を侍醫とし、祿八十石を食ましめき。次いで安政元年壯猶館の開かるゝや、良安その教授兼飜譯方の任に當り、四年齊泰に隨伴して江戸に赴き、蕃書取調所教授手傳となりてより五十石を加増せられ、文久三年軍艦御用を兼ね、慶應元年種痘所棟取に任じ、三年卯辰山養生所主附として又五十石を増さる。明治元年良安再び長崎に至る。これその子誠一郎をして佛國に留學せしめんが爲なりしなり。三年金澤藩醫學館創設するや、良安をしてその計畫を爲さしめ、次いで教師に任ぜしが、四年廢藩置縣の事あるに及び、八月請ひて職を辭し、爾後世外に逍遙して風月を伴侶とせり。明治二十三年九月七十四歳を以て歿し、四十二年九月十一日正五位追贈せらる。良安天資磊落にして善く衆を容れ、雄辯快談流るゝが如し。體軀強健老いて益壯、常に子弟を誨へて諄々倦まず。身を奉ずること最も簡素なりき。

黒川良安肖像 金澤市藤本住吉氏藏・津田淳三肖像 江沼郡大聖寺町稻坂謙吉氏藏