第三章 學事宗教
第八節 科學
蘭法醫にして我が金澤に常住するものあるに至りたるは、弘化中黒川良安の侍醫となりたるを以て始とすべし。良安は越中の産、曾て長崎に遊び、醫術を獨人ジーボルトに學びたるものなり。良安の名聲噴々として擧るや、年少の醫生にして雄志を抱き、彼に倣ひて身を立てんと欲するもの多かりき。時に良安と同じくジーボルトの門より出でたる緒方洪庵は、大坂に在りて適塾を開きたりしが、天保中大聖寺の人渡邊知行ここに學びて塾頭となり、知行に次ぎて金澤の人津田淳三亦同じく塾頭となる。二人の國に就くや、知行は大聖寺藩醫となり、淳三は加賀藩醫に任ぜられ、共に耆婆扁鵲を以て稱せらる。降りて嘉永中に金澤の人太田美農里あり、安政中に小松の人田中信吾あり。皆適塾に入りて錚々の名を得たり。是より後良安を以て耆宿とし、淳三・美農里・信吾の徒之を圍繞して、醫界に新室氣を醞釀せしめしかば、草根木皮を以て生命とするもの漸くその影を潜むるに至れり。而して良安は廢藩以前に活動し、淳三等は置縣以後に翺翔す。今これ等蘭法醫の略傳を掲ぐ。
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