石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第八節 科學

加賀藩に於ける博物學は、前田綱紀の好學によりて起る。蓋し綱紀は、一切の事物に對して、正確の知識を得ずんば止まざりしを以て、その研究の範圍頗る廣汎に亙れりといへども、就中最も力を盡くしたるは博物學なりき。抑綱紀の草木鳥獸に關して注意を怠らざるは、夙くその幼時に端を發したる稟性なりしが、長じて和漢の群籍を渉獵するに及び益熱中し、普く實物を集めて標本を作製せしのみならず、又圖畫によりて之を品類せんと試みたりき。されば綱紀が題して草木鳥獸圖考といへる如きは、畫工をして動植物を實寫せしめ、施すに濃彩を以てしたるものにして、その數幾何に上るやを知らず、藏して二合の櫃中に充滿せり。綱紀事の疑はしきあれば、即ち書を以て臣屬中の學士・醫員に問ひ、尚解せざるときは阿蘭陀通詞を煩はし、檢索實に微に入り細を極むるものあり。是等の質問と之に對する應答とは、皆綱紀の輯録せる好祐類編その他の文書に載せらる。今その疑義の一二を摘記す。

 楓は日本に有之候哉、未聞召候。葉の體は、板屋かへでの若ばへの末に出申候葉の樣に可之と被思召候。若日本にも有之候はゞ御覽被成度候。扨又此板屋かへでは、何と申物に候哉。
 かんざう老根は、・鳶頭に似申由若水申候故、相尋させ候處、植置六年に成候老根持來候。見申候處違申候。彌可吟味候。
〔好祐類編〕
       ○

 日本之櫻之木、阿蘭陀に有候哉。左樣に候はゞ、如何樣之花にて、功能などは何と有之候哉。
 すぎなつくしは、何と申物にて、功能は如何樣有之候哉。つく〲しは阿蘭陀の本草に慥相見申候得共、文字且て讀不申候故、名も功能も知不申候。
 阿蘭陀之牛馬も、日本之牛馬に替事無之候哉。但長け大きに有之候哉。先年公儀え差上候すぢ有之馬は、何と申所に候哉。犬程成牛をも先年上申候。是は阿蘭陀に有之候哉、但餘國に有之候哉。
〔前田侯爵家文書〕
この文書中、すぎなに關する質問に、綱紀が阿蘭陀の本草にて見たるも、文字を讀む能はずといへるによりて、その植物學に關する蘭書を所藏したるを知るべし。抑も徳川氏の世、上下殆ど三百歳、身侯伯に列せしもの幾千人なるを知らず。而してその中或は經義に精しきあり、或は詩文に長じたるあり、政治經濟亦固より得意のもの少からずといへども、我が綱紀の如く、格物を以て趣味とせしものは、實に異彩とすべきなり。この際本草・物産・名物の學を以て加賀藩の用を爲したるもの、前に向井元升あり、後に稻宣義あり。特に宣義は綱紀の與へたる資材によりて研究を專らにすることを得、綱紀は宣義の學殖によりて智識慾を滿足せしむることを得たり。二人の時を同じくして世に在りたるもの、實に二人の幸福なりとすべし。