石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第七節 書道

唐樣の書家には、綱紀の時に井出正水あり。自から一家の風を爲し、名づけて正水流といふ。正水の楷法は圓遒の趣乏しくして稜角の勢多く、草書は則ち臥筆横筆、淡墨を以て神髓を瀟洒縱逸の中に取り、その蒼勁得意の處に至りては天機生動せり。正水の門下に高田方水赤井得水和田淡水ありて、世に之を正水門下の三水と稱す。方水の子に文堂あり。正水流の硬勁なるを化して優婉となし、稜角を去りて圓熟ならしめ、稍和樣に近似するに至る。是より世人正水流を一に高田流ともいへり。降りて前田治脩の時に至り、淺野屋秋臺楠部屋芸臺の二人、市人より出でゝ大に聲名を博す。次いで岡野黃石あり、儒を以て書を兼ぬ。凡そ唐樣の書家中、藩政時代を通じて秋臺・黃石二人を巨擘とすべしといふ。同時に市河米庵江戸に在りて加賀藩祿を食み、齊廣の嗣子齊泰の爲に書を教ふ。齊泰素より翰墨に長ぜしが、米庵の薫陶を受くるに及び技益進み、遂に諸侯中の隨一を以て屈指せられ、禁廷亦命じてその揮毫を上らしむるに至れり。葢し我が國、享保以降入木道に達するものなきにあらずといへども、未だ全く和臭を脱するに至らず。後臨池の技特に進歩せしは米庵の鼓吹によると言はる。而して米庵の江戸に在るに對して、金澤には橘觀齋あり、書を以て子弟を教育す。世人皆稱す、臨池家概ね長ずる所あり短なる所あり。啻り觀齋に至りては諸體悉く能くせざることなしと。或は曰く、觀齋の書機鋒乏しくして風韻を缺く憂ありと。然れども運筆の自在なる點は、多くその匹儔を得べからず。稱して觀齋流といひ、大に世に行はる。末に至りては、書を以て仕ふるものに市河遂庵あり。儒にして書を善くするものに長井葵園榊原拙處等あり。拙處頗る多技にして、詩文を好み丹青に長じ、書の如きは師傳なき餘技に過ぎす。曾て人の孝經千紙を書せしものあるを聞き曰く、我豈之を能くせざらんやと。乃ち朝餐前を以て孝經揮毫の日課に充て、細楷を以て全文を一紙に書すること、殆どその死に至るまで渝らざりき。今往々にして存するものあり。その他高田石水・高田蘭堂・橘觀齋[二 代]・佐藤衡齋山納蘭山橋健堂土田南皐直江菱舟橋石圃等、各門戸を構へて子弟に教授す。是等の中、最も盛なるを正水流の高田氏と觀齋流の橘氏とし、一は城下の東部に威を振ひ、一はその西部に勢を張れり。されば金澤東西勝負競といふものに、『東、幾代もつゞく正水流。西、二代目なれど橘觀齋』とさへいひけるなり。今此等書家の略傳を載す。