石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第六節 俳諧

闌更の生まれたるは享保十一年に在りて、その師希因の歿年は彼の二十六歳の時に當り、千代の物故は五十歳、麥水の遠逝は五十八歳に當る。故に闌更は略麥水と同時の人にして、夙く寶暦の頃より多數の書册を出せりといへども、そのに上りて名を爲せるは麥水の滅後に在りとす。闌更姓は高桑、諱は正保、屋號は釣部屋といへども、その通稱を明らかにせず。一號は半化坊。金澤の人。初め李桃亭を經營し、又狐貍窟を修し、後二夜庵を造り、醫業の傍俳想を練り、後進を誘掖したりしが、蛟龍久しく池中のものにあらず、遂に杖を東都に曳きて二夜庵を再興し、『枯蘆の日に〱折れて流れけり』の句あるに及びて、枯蘆の闌更と稱せられき。天明の初闌更洛東に移り、雙林寺中に南無庵を結ぶや、俳名更に大に顯る。庵の側に小堂あり、五老井許六の刻せる芭蕉翁の像を安置す。是を以て南無庵を一に芭蕉堂と稱す。葢し闌更が最も俳道に發奮せることの上洛以後にあるべきは、續俳家奇人談に、或年加賀の何某に來りて、今や蕪・曉の兩雄已に歿して、近國に俳諧の棟梁なし。然るに汝居然として時の至れるを知らざるは何ぞやと。乃ち座側の藥籠を採りて庭前に投ぜしに、闌更は大に悟り、是より專ら心を俳事に傾けたりといへるが如くなりしなるべく、終に寛政五年曉臺の後を受けて、花之本宗匠の榮稱を二條家より恩許せらるゝには至れるなり。闌更の作句的體度に就いては、その著有の儘に述べたるが如く、初め伊勢風に低迷したりしも、一旦偶然非を悟りて蕉風に歸りたるものにして、之と同時に麥水が虚栗調を主唱するをも快しとせず、麥水の如きは芭蕉の延寶・天和に於ける作を以てその眞髓なりと誤解するものなりと攻撃せり。而も闌更は、專ら元祿調にのみ跼蹐するものにあらずして、別に自家の境地を開拓したることは、正岡子規の曾て之を評して、『蕪村・曉臺・闌更の三豪傑は、古來蕉風外に出入して各一派を成せり。此三人の獨得なる處は、芭蕉及び其門弟等が、當時夢想にも知り得ざりし所にして、俳諧史上特筆大書すべき價値を有す。』といへるを以て知るべし。但之が末流を汲むものに在りては、徒らに平易淡泊の皮相をのみ見て、風韻の骨髓を究むること能はず、遂に天保の俗調に墮せしもの、之を眞に惜しむべしとなす。闌更子弟を導くこと最も懇切なりしかば、束脩を入るゝもの千を超えたりといひ、加賀の俳人中に在りても、蒼虬梅室を初とし、逸庵蘆峰・五松下黄花・槐庵馬來・圃辛亭松菊・柿丸舍擧遠・冬葉庵一杪・翠臺眉山・園亭鹿古等皆その門より出でたり。闌更寛政十年五月三日芭蕉堂に歿する時七十三。高臺寺の塔頭月眞院に葬る。その著には寶暦三年の花の故事、明和六年の俳諧有の儘、八年の落葉考、天明五年の俳諧世説、六年の芭蕉消息集、寛政七年の續七部集、年月不詳の月花傳等あり。句集には天明七年四山亭嶠水の輯めたる半化房句集あり。彼の手跡の傳はるもの少きは、曾て北國に歸りしとき馬より落ち、爲に右腕を折りたるによるといふ。闌更の歿後、未亡人得終尼蒼虹等と意見合はず、南無庵の號を擁して俳壇の勢力を維持せんと欲せしが、終に徒勞に歸せり。而してその一周忌に當りて門人豐前の有隣は三日の光を出し、七周忌に加賀の阿青齋は續柞原集を、得終尼はもゝのやど李を編み、十七周忌に安藝の篤老は合歡雨集を印行し、明治三十年南無庵八世と稱する京都の楓城は、闌更百年忌の追悼會を祇園に營みて、百めぐりを出板せり。