石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第六節 俳諧

因に言ふ。城丸花仙の大正四年に著せる千代尼によれば、千代享保五年四月十九歳にして、金澤大衆免中組の足輕福岡彌八に嫁し、翌年七月一子彌市を擧げしが、十一年五月以降良人は病に臥し、遂に七月下旬を以て鬼籍に上りしのみならず、十二年二月愛子も亦夭したりしを以て、五月婚家を去りて松任に歸れり。その初めて夫に見えたる時、『澁かろか知らねど柹の初ちぎり』、夫に死別せる時、『起きて見つ寢て見つ蚊帳の廣さかな』、子の逝きし時、『破る兒のなくて障子の寒さかな』『蜻蛉つり今日は何處まで行つたやら』等の吟ありといへり。花仙何に由りて是等の年紀を詳記し得しかを知らずといへども、千代が十八歳にして金澤の福岡某に嫁し、その後夫身まかりて松任に歸るとのみは、近世奇跡考にも載する所あり。今案ずるに叙上の句皆千代の句集に所見なし。且つ宇中の傳千代女書は、享保十年の稿なるが、その中に『いまだ高砂の尾上の相生の名もあらずとかや。』といへるは、千代が二十三歳たりし當時未だ婚せざりしか、少くとも獨身なりしことを證するものなるのみならず、十二年卯月朔日に美濃の黄鸝園を發足したる盧元坊里紅が盛夏の頃松任に入りしに、千代は之を迎へて『晝顏の行義に夜は痩にけり』と吟ぜしに、里紅は『瓜の盛を兒の里をり』と和し、加賀本吉の百草堂若推又來り會して『繕りも大工の下手に長びきて』と第三を賡ぎたること桃の首途に見えて、その自由に行脚の徒と交遊するの状、到底近時夫を失ひたりしものゝ體度にはあらず。是等の點より見る時は、千代の福岡彌八に嫁したりといふことも、一子彌市を擧げたりといふことも、共に頗る疑なき能はず。葢し十七歳にして、既に支考より無上の推奬を受けたる千代は、その聲名の擧ると共に伉儷を得るの機會を逸し、俳諧に一生を委ぬべく決心して風交に生涯を送り、老後僅かに白烏を得て養嗣子となし、以て己の菩提を弔はしめんとしたるにはあらざるか。又寶暦十四年の千代尼句集滕松因の序には、『千代尼少少清談簡暢。土木其形骸。枕石嗽流。卒意嘯詠。』といひ、安永八年に上梓せる江戸の田女が海山に、『金澤千代女は若かりしより風雅をいもせの道にかへて、今や素園といへる尼になり、』といひ、又千代尼三十三回忌の追悼集なる無射集の序は千代と同郷の儒三宅橘園の記する所なるが、その中に『吾郷有千代尼。幼善誹歌。頗造精妙。自矢不嫁。專志雅藻。才思可以詠椒花。詞花不回文龜形。樂之終其身。而顯一世。名夙騁海内。千里之外莫傳誦而美之。』といへるものも同じく一證とすべきなり。自矢の二字無射集には自夫の如く又自失の如きも、橘園文集によりて確定すべし。是等皆千代の婚せざりしことを考察するの資に當つべきにあらざるか。而して千代に『澁かろか』と『起きて見つ』の吟ありしことは、夙く寛政五年三熊花顛の著にして伴蒿蹊の補へりといふ續近世崎人傳に載せられ、文化の傳が近世奇跡考之を襲ぎ、天保の菊朗が千代尼句選にも録したれば、その誤を傳へたることの古きを知るべく、『蜻蛉釣り』は文政二年一茶のおらが春に引用せられて、『子をうしなひて、蜻蛉釣りけふはどこまで行た事か かゞ千代』と載せ、安政六年の千代尼發句集には追加として出せり。『起きて見つ』の句は、後世川柳の『お千代さん蚊帳が廣くば這入らうか』、若しくは『千代が蚊帳羨しがる子澤山』などゝ宣傳するに及びて、益人口に膾炙するものなるも、こは『物おもふ頃』の端書を附し、元祿七年に開板せる泥足著の其便に載せられたる浮橋の作なること、既に世人の知る所なり。千代が初めて里紅に遇ひたる時、苦吟の極『時鳥々々とて明けにけり』と詠じたりとの譚、亦續近世崎人傳の記する所なるも、下五文字を『寢入りけり』とする涼菟の作を混じたるなりとは、近世奇跡考の道破する所とす。『寢入りけり』の作者亦二人あり。涼菟のものは安永三年素兆著の類題發句集に載せられ、調和のものは古く元祿二年等躬著の伊達衣に撰ぜらる。而して千代の句としては、既白千代尼句集にもはいかい松の聲にも、共に之を見ること能はず。