石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第六節 俳諧

北陸に入りし俳人中、その勢力扶植に成功したること芭蕉に次ぐものを、美濃の支考となす。白陀羅尼は元祿甲申(寶永元)二月の序文を有するも、内容は元祿十六年の句集なりと思はるゝが、その中に東花坊が留別の句の前書として、『我三とせ越路に行かへりて』といへば、彼が杖を北陸に曳けるは、元祿十四年を以て初とすべく、その年は即ち彼の東西夜話が成りし時にして、四月上旬洛を發し、大津芭蕉の墓を弔ひ、彦根に許六を訪ひ、加賀に入りて山中・大聖寺金澤に巡遊するや、その能文と能辯とは、直に桃妖厚爲句空北枝牧童萬子小春・秋之坊等を、悉く藥籠中のものたらしめしが如し。さればそこの花の序文に、萬子元祿辛巳五月十七日長緒の野亭に遊びしに、支考越中の浪化と共に來り會せることを言ひて、『古翁そのかみ北陸行脚も、十とせあまり二とせの春秋をかへたり。支考古き笈を憺うて、其道の一筋をまよはず。』と記したるは、芭蕉の歿後星霜稍久しく、薫化漸く薄からんとせし際、地方俳士が支考の鼓吹によりて實に蘇活の感ありしをいふものにして、萬子の如き蕉門の長老すら支考を歡迎することの甚だしかりしを見るべし。この行、支考小松に杖を留めざりしことは、その地の俳人等が遺憾に堪へざる所なりき。是を以て十六年十月支考の重ねて金澤に在りしとき、宇中小松より來りて之を拉し、終に一集を撰じ、名づけて夜話狂ひといへり。宇中は和田氏、藥種を業とし、その居を不五舍・寂保齋又は櫻烏仙といひしが、是より後東花坊に倣ひて北花坊とも號す。北枝の文に、『秤をとる時は治平といひ、筆をとる時は北花坊と申す。その文章の慮外どもは、役の行者の高木履にめんじて、關の人々もゆるし給へや。頭巾すゞかけの俄山ぶしに齋料々々。頭巾とればよき商人や山櫻』といへるもの即ち是なり。寶永元年師走十六日の火災に、宇中その家を失ひて、自ら回祿記を作りしことは、翌年同地の人青雲齋湫喧の著したるしるしのさほに見え、三年には宇中また百がらすを編めり。