石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第五節 國學(下)

淺井政右、通稱作左衞門、後源右衞門と改む。一政の長子なり。寛永二十年前田光高に仕ふ。資性洒落、茶道を好み、和歌連歌に長じ、兼ねて筆札に巧なり。曾て百首を詠じ、大納言阿野季信の點を乞ふ。季信左の歌を選びて秀逸とす。

 梅の花それとは見えぬあけぼのはたゞ月雪のにほひなりけり

人あり、季信に問ひて曰く、『なりけり』は歌道の制詞にあらずや。然るに君これを賞するは如何と。季信曰く然り 然りといへども、巧穩雋永この歌の如きに至りては、曷ぞ常格を以て律することを得んやと。その推稱せらるゝこと此の如し。元祿四年歿す、享年六十八。著す所、わざとの記一卷あり。月村石の記も亦政右の作る所とす。
月村石記
 今は昔、能州の畠山といひしは、三管領のその一つにて代々國を領し、鹿島郡七尾の山に、城を構へていましける比、都より連歌の宗匠月村齋宗碩法師を招請し、歌の道をも訪れ、歌の教をも受けられしとかや。小幡永閑といひしは、宗碩の門弟にて、世に聞え有人も、畠山殿の家の子になんありけるとぞ。宗碩下向の年號、又在國の程をも、審かに知れるものなし。其近きわたりに、世良志の里といへるは、七尾よりは三里許や有らん。入海のさま、岡山のたゝずまひ、景象勝れて、昔ははりま潟にも似かよひたるにや有けん、月村齋の願主として、人丸の社を建、島かくれ行を詠し所となん傳へ侍る。今年貞享の五とせ孟夏の比ほひ、同國湧浦の湯あびに罷りけるついで、唯見渡さるゝ程なれば、に棹さして其所をもとめけるに、彼瀬嵐(セラシ)の蜑の子も、おぼつかながらさしいらへて、百年のあなたにや、越後勢亂入の比ほひ、此渡りの堂社佛閣、悉く破却せられて、今は其道だにさだかならずと云々。甲斐々々しく案内しけるに任せて、其舊跡に分入て見れば、誠に野草藪と茂りて、形もなく荒果たる中に、大なる礎のみ殘りける。其石の缺たるにやあらん、枕計小き有けるを、袖にして歸りまうできて見れば、おのづから島山の姿にも覺えてあれば、やがて盆石となして建立の人を慕ひ、又其所の景氣にも准らへて、月村石と名づくることしかなり。