石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第三節 漢學(下)

奧村尚寛、字は白羽、河内守と稱し、愼齋又は石臺と號す。程朱を尊崇し、窮理の榮を事とす。嘗て鄙陋瑣言・蠡海餘瀝箸を著す。又周易を新井祐登に受け、頗る其の幽を闡く。寛政四年明倫堂の設けらるゝや、その總奉行を命ぜられ、計畫する所多かりき。時に岐の人溪世尊加賀に來り、紫陽の説を唱ふ。尚寛世尊の爲人を信じ、禮を厚くして存問し疑を質す。所謂百年談はその俗牘なり。尚寛平生自ら書を著し、矻矻として筆削し、詩文に及ぶの遑あらず。其の落花流水編は、寛政四年妻の死を悼みて記せるなり。又石臺文集あり。享和三年十二月歿、年四十七。
落花流水編 二章
 去年冬至如例年年筮。余得遯之咸。宜人得未濟之睽。余與宜人相配以來。莫睽情。然余咸而宜人睽。可怪耶。至今按之。睽者家人之倒卦也。未濟亦陰陽失位。遯象姑措之。咸即哀慕之象。不亦信也。鳴乎我學易未精微。莫初知此象焉。今言之亦何之益。噫。宜人孕而五箇月。未其孕與孕。因筮得既濟之蹇。使白蛾先生斷之。先生曰孕。又問此卦産難易何如。曰産則産。但爻辭曰濡其尾。宜之。旡亦他言。余聞之謂。宜人自嫁産六子三男三女。其長女産平安也。自二女以來。毎有胞衣滯。則先生之言盖是乎。雖心患于口。今月朔日自未明催生。及于日未男。余聞之雖喜思。思胞衣未下。至于日入。體氣疲勞而絶飮食。醫療亦竭。嗚呼哀哉。