石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第二節 漢學(上)

富田景周等の晩年文化の頃は、明倫堂學の隆盛なりし時代にして、講經の業頗る熾烈、史學亦隆昌、所謂儒者なるもの濟々として多士なりしとはいへ、詩賦文章の業は一般に往日に比して微々として振はず、纔かに二三子によりて一綫の命脈を維持し得たるのみ。學の教授を以て任じたるものにありても、詩賦の平板にして凡調なるは嘆ずるに餘ありき。然るに文政六七年の頃より末に至るまで、作詩に熱中する大夫及び士庶人再び俄然として輩出し、唱酬賡和率ね虚日なく、所謂小集雅會なるもの相接續せり。その作固より凡庸にして見るべきもの少しといへども、亦各才に應じて雅懷を暢べ、特に商工の徒にして風流三昧に世を送るもの多く、家業を抛擲してこれに心醉せる輩さへ出で來れり。野村圓平空翠・龜田章鶴山・錢田青立齋の如きはその稱首たり。彼の徒の作る所、著想幼穉、字句生硬、作家を以て目するに足るものなく、甚だしきに至りては、詩賦の題序たる僅々十數の文字中にすら布置顛倒するものあり。到底之を以て元祿・天和の經史に素養ある君子の作に比すべくもあらずといへども、作詩の隆昌はやがて二三詩人の崛起する前兆として、之を慶せざる能はず。