石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第三章 學事宗教

第二節 漢學(上)

飜つて經學に關する沿革を案ずるに、前田利家が經國の業を創剏したる際に當り、京師に藤原惺窩ありて程朱を祖述し性理の説を唱へたりしが、その門人中より洛の松永昌三江戸の林羅山二人を出すに及び、その學昭々として旭日の天に冲する如き觀を呈し、而して寛永中昌三の初めて加賀藩祿を食むや、金城の地亦將に道學を迎へんとするの機に向かへり。既にして昌三の子永三聘せられて加賀に下り、家學を繼紹して聲譽を隕さず。昌三の門下より出でし木下順庵も、亦博覽強識にして能く朱註を遵奉し、後進を誘掖して倦まず。寛文十二年前田綱紀室鳩巣に命じ、順庵に就きて教を受けしむ。當時明儒朱舜水來りて水戸侯の客となり、江戸に居る。綱紀亦寛文八年五十川剛伯に資を給し、舜水に就きてその學を傳へしめ、後擢んでゝ儒員たらしむ。大夫奧村庸禮・その子悳輝も亦同じく贄を舜水に執れり。是に於いて程朱の學東西より輸入せられたりしといへども、之を尊信するものは猶少數篤學の士にのみ限られたりき。然るに天和中羽黒成實の來りて金城に寓するに及び、最も程朱の學を祖述すること深く、孜々として教授に努力せしかば、執政村井親長は先づ從學して衣食の資を給し、士大夫亦多く之を矜式し、一翕然として歸嚮せり。蓋し加賀藩に儒教の盛なるは成實を以て先導とすべく、實に一代の鴻儒なりと稱せらる。然れどもその初めて北下して舌耕に從事するや、猶斯學草創の業頗る容易ならざりしが如し。鳩巣嘗て曰く、成實の來りて加賀に僑居せしより、首として義理の學を唱道せしに、衆見て奇怪となし相集りて嗤笑せり。その既に從遊せし者といへども亦疑信相半するを免れず、往々にして背き去る者あり。唯終始一貫之に服して渝らざりしもの、奧村脩運山根直廉青地齊賢青地禮幹等數人あるに過ぎず。此等は皆能く師の教を守りて異端に移らざることを得たりと。既にして鳩巣の學成り、貞享元年の儒臣に列せられしこと前に言へるが如く、元祿十年齡四十にして金澤に移り、爾後こゝに在ること十五年の久しきに及べり。鳩巣二程及び朱子の學を尊信して、門戸極めて儼然たるものあり。故にその口に發する所筆に載する所、一語一句の微といへども根柢を四書六藝に立て、釋明を濂閩に歸せざるなし。是を以て門下の七才の如き、その師を鑚仰すること至らざるなく盡くさゞるなく、他年鳩巣の幕命に應じて東上したる後に及びても尚一人の之に背くものを見ず。餘炎の煽するところ一翕然として風をなし、好學の士皆その嚮ふ所を誤らざりき。鳩巣と時を同じくして伊藤由貞あり。松永昌三の門に出で、元祿九年來りて金城に客寓し、生徒を教授す。由貞の猶子祐之、幼にして共に金城に來り、經史を由貞に受け旁ら文辭に通ず。その帷を下すや、從遊するもの頗る多し。享保の比大地昌言あり。鳩巣の外甥を以て、學古今を貫淹し、蔚然たる大家なり。