第三章 學事宗教
第一節 學校
藩末の醫育は、西洋兵學と共に壯猶館を以て發祥の所とせり。本館に於いては、初め炮術・馬術等を研究するが爲蘭書を調査したりしが、當時蘭書を解したりしものは即ち醫師たりしを以て、文久二年に至りては傍ら蘭醫學の會讀を爲すことゝなり、黒川良安・津田淳三・明石照齋・太田美農里[初良 策]・田中信吾[初一 庵]・鈴木儀六等、皆自宅に醫業を開くの傍壯猶館に出務してこの事に從へり。而して同年六月の文書に、『蘭醫書會讀等も御取立に相成候間、是又望之者は罷出可レ申候。右に付、是迄蘭醫試業之節は學校に於いて見屆來候得共、以來壯猶館にて見屈候筈に候。右之通可二申渡一旨被二仰出一候條、一統可レ被二申談一候事。』といへるによりて見れば、從來學校即ち明倫堂に於いて執行したる醫術開業試驗を壯猶館の主管に移したるものにして、同時に蘭法醫の勢力が獨立せんとする經過を察すべく、次いで慶應元年に至りては公衆衞生の爲に種痘所を設立し、黒川良安その棟取となれり。
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