石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第一章 制度法規

第四節 租税

藩政時代に於いて庶民の負擔する租税中、その額の最も大なるものは田租たること言ふまでもなく、而して初期に於ける賦課の比率は、草高を三分してその二を地頭の所得とするにありし如し。前田利家長連龍に與へたる書中に、『三分二は地頭へ令收納、三分一をば百姓徳分に可致候。』といへるもの即ち是にして、同じく利家が天正十五年五月珠洲郡直郷西方寺村に與へたる年貢勘定状に、草高五十八俵七升を三ッ免引として、その内四十俵二斗二升九合を定納とすることを記したるは、當時一俵に三斗入なりし計算を以て、草高の十分の三即ち十七俵一斗四升一合を百姓の作得とし、殘額十分の七を公課とするものなるが故に、三分の二より稍重きも亦略近しといふべし。こゝに免といへるは、牧納を免除する割合にして、百姓の作得割合に當り、後に公納すべき歩合を指すものと全然反對の意味に用ひらる。かくの如く納税の率頗る重かりし故に、百姓聞々之を未進に附するものありしかば、領主の嚴に督促して假借することなかりし事情は、亦之を利家が珠洲郡上戸村の年貢を皆濟せざるを責めたる書中に、若し速かに彼等の義務を盡くさずんば馬上の使者を頻發すべしとの意を述べたるによりて見るべし。降りて寛永の初年頃に至りては、租率利家の時の如く高からざりけん、越中礪波郡三清村の百姓が記したる御改作聞書に、『吾在所三清村にても、高免は五ッ二厘、下免は三ッ八歩一厘』といへり。而も當時は檢見によりて年々の豐凶を實査し、免相を増減することを許されたるが故に、地頭たる領主若しくは給人百姓との交渉煩雜を極め、相互の不便不利實に甚だしきものありき。是に於いて前田利常は、その晩年慶安・明暦の交に亙り、時弊を匡救せんが爲に、その所謂改作法なるものを施行し、耕地を整理して隱匿を除き、耕耘に要する費用を勘へて租率を更改し、百姓の作得を豐かならしむると共に、給人收納に不安を感ずることなからしめしが、之によりて税制に長足の進歩を來したることは、祿制及び農業の條に之を詳述せり。

 兩國在々かまどめ雖申付候、其方知行之儀は無別條候間、收納申付候。然者如置目、在々升つぎも依其米つもりを以、三分の二は地頭へ令收納、三分の一をば百姓徳分に可致候。別此外に非分之儀候はゞ、急と可成配由堅可申付候。恐々謹言。
    八月三日                   利     家 在判
     長 九郎左衞門殿
〔長家文書〕
       ○

 天正十四年分
     直郷之内 西方寺
 一、百十四俵一斗一升七合五勺         高
   此内廿五俵                妙嚴寺ニふち
       此荒七俵一斗五升
   廿五俵一斗九升七合五勺          荒
   五俵一斗五升               當開一反大六十歩
 殘 高
  五十八俵七升
   此内十七俵一斗四升一合         三ッ免二引
  四十俵二斗二升九合             定 納
  二俵一斗三升四合              當開分
    合四十三俵六升三合
     此 内
   十 五 俵                宗諲神の請取之□(分カ)
   十 四 俵                金壹兩只今上申候
    合廿九俵
 殘 ル
  十四俵六升三合               未 進
     此 内
   十俵一斗五升               金三分  六月中
   三俵二斗一升三合             さしをき候也
     以 上
    天正十五 五月卅日                   印(利家
〔妙嚴寺文書〕
       ○

 猶以遂中勘定候處、高未進之條、催促遣候也。
 爲催促、寺岡平右衞門尉・片岡平吉・小塚七藏差遣候之條、年貢諸濟物、急度可見濟、猶以難澁に付ては、可馬上使者也。
    十二月廿六日                     利     家 印
      直郷上戸百姓
〔妙嚴寺文書〕