石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第一章 制度法規

第三節 司法

犯人の罪状重大なる時は、刑をその子に及ぼすことあり、之を連座と稱す。先づ庶民即ち名字持ならざるものゝ連座法を案ずるに、前田利常施治の中頃よりは未だ曾て死刑者の男子を助命せしめし例を見ず。萬治二年、放火その他の大罪を犯したる爲磔刑の宣告を與へらるゝ者の男子は、假令他家に養はるゝも凡べて同罪を以て論ずるを通則とし、磔刑に當るも罪状の特に同情すべき場合に於いてのみ、その子を助命せしむべしと規定せり。元祿十一年磔刑者の男子なるも、離別せられたる母に隨ひ、幼より繼父の家に在りたるを以て、助命の上三ヶ所御構追放を命ぜられたる如きはその一例なり。次いで寛文十一年正月磔刑者の子は斬刑に當て、梟首の者の子は概ね助命するを通則とし、梟首の者といへども罪状の特に重大なるときは、亦その子を斬に處することゝす。而して斬刑に行はるゝものは、その子の連座することあらず。凡そ母の罪は子に及ばず、父の罪は女子に及ばざるを法とするが故に、連座に關する法文中、親とあるは即ち父の義にして、悴と稱するは長男たると次男たるとを問はず一切の男子の義なり。而して父の死刑に男子の連座する場合には、『父の罪により悴切害被仰付。』との宣告文を用ふ。切害は殺害とも書し、古くは庶民死刑を稱せしことあるも、の中期以後に於いては專ら前記の意義に使用せり。次いで寛保元年には、磔刑の宣告を得たるも未だ執行せられざる以前に、その妻の生みたる男子は之を連座せしめざることゝせり。後文政五年、磔刑の者の子を連座によりて斬するの法を廢す。然れどもこは斬刑の慘酷を避けしのみにして、法理上連座そのものを誤てりとしたるにはあらず。されば嘉永六年錢屋五兵衞の子喜太郎の永牢に處せられたるは、五兵衞が既に牢死せしに拘らず磔刑の宣告を得たるを以て、これに連座せしめられたるものにして、喜太郎には何等の罪ありしにあらざるなり。又連座の法を血族以外に及ぼしゝことあり。文政六年、博奕を行ひたる農民ありたるときは、その居村の民を悉く連座せしむべしと定めたるもの即ち是なり。