石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第一章 制度法規

第二節 祿制

口米沿革を記したるに因み、こゝに量器の變遷をも考へざるべからず。葢し慶長九年八月朔日の令に『新酒之事。九月より二月まで、上々酒判一升に付て、八木一升五合宛たるべき事。』とありて、この判即ち升は、文祿三年六月豐臣秀吉の定めたるものとし、方五寸深二寸五分、即ち積六十二立方寸五たりしなり。その後慶長十年卯月の文書には、定納・口米を量るに斗子升を用ふべきことを定め、同十三年二月十日には、本月二十五日以降賣買一切に新升を用ふべく、舊升を用ふるものは處罰せらるべしとの令ありて、こゝに新升といへるも亦斗子升とし、而して斗子升の外、別にその十倍を量る斗升のありたることは、『斗升並斗子升』と記載したる例によりて知るべし。然るに斗子升の行はれたる後も、その製粗惡にして、尚升を混用するものありしかば、元和中命じて晴明判のものを用ひしむることゝせり。降りて承應三年十二月四日の令に『當年貢米、古升に而納候給人之者、新京升を以百姓へ爲廻、出目・不足之分指引算用可仕候。向後古升に而收納仕間敷旨、給人中え被仰出候條、右之趣百姓中え堅可申付者也。』とあるは、恐らくは在來の升が甚だしく亂雜に陷りたるを以て、容量の確實を計らんが爲なりしといへども、尚一般に普及するに至らざりしものゝ如し。次いで寛文八年幕府の命によりて新京升を用ふることゝせしが、との升は亦承應のものと容積を異にし、後世專ら新京升の名を以て呼ばるゝものとす。然るに江戸に在りては、江戸製の新京升に誤謬あることを發見し、寛文九年二月製に倣ひて改造せしめしかば、加賀藩も亦自國製のものを發してより購入使用せしむることゝし、翌寛文十年七月二十六日の令を以て、斗子升新京升との差額を發表し、口米増加によりて、全收納の實量を同一ならしめんとせり。『跡々よりの出目、新斗と三升違、定納五斗に付一升五合、口米四升に付一合、兩樣の出目一升六合、口米四升の内へ斗り込み、向後口米五斗に付五升六合、致別俵納候樣に可申付候。』といへるもの即ち是にして、跡々とは慶長升の義とし、新斗とは寛文新京升を意味するものにして、三升違とは、慶長升の一石が寛文新京升の一石三升に相當するをいふ。されば口米四升に付一合とあるも、精しく之を算すれば一合二勺たるべき筈なり。案ずるに寛文の斗升は、方一尺五分・深五寸八分八厘・積六百四十八立方寸二七なれども、積三立方寸九二六三四の弦を有する故に、その實積は六百四十四立方寸三四三六六なり。而して寛文升一石一斗一升二合四勺が慶長升一石八升に相當するものなるを以て、寛文升の積より算出する時は、慶長斗升の積は六百六十三立方寸六七三ならざるべからず。承應の斗升は方一尺一寸五分・深五寸・積六百六十一立方寸二五なるが、慶長升に對する出目の公定發表せられたるものを見ず。又慶長の斗升は積六百六十三立方寸六七三、文祿の斗升は六百二十五立方寸なるが故に、前者の一石は後者の一石六升一合八勺餘に當り、廳事通載に『斗升と升との間、一石に六升宛升ほそく御座候。』といへるに符合するを見る。因に言ふ、慶長斗子升は斗升に對する小升なるが故にトノコ升といはざるべからず。然るに古人はトノネと誤訓したりと見え、諸書に斗根升と記したるもの多し。