石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第一章 制度法規

第二節 祿制

給人の受くる收納を、折紙高に對して能州・越中知四ッ一歩、加州知三ッ六歩の平均免に相當する額に定めたることの、果して何れの年に始れりやに就きては、十村奮記に明暦二年とするを探るべしといへども、之より先既に能州・越中三ッ八歩、加州三ッ三歩の平均免によりて支給する制ありしことは、諸書の齊しく記する所なるに拘らず、實施の年月全く明らかならず。但し十村奮記に、從來能州・越中知は三ッ六歩五厘の平均たる上に、金澤に運輸すべき費用として若干を納めしめたるを免に換算し、着米免二歩四厘七毛と見圖り、更に二歩三厘の増免を加へて合計四ッ一歩とし、加州知は從來の三ッ三歩に、三歩の増免を加へて三ッ六歩とし、前田利常に仕へて小松城に勤務する士は加州知三ッ五歩なりしを改めて三ッ七歩とせりと傳ふるは、必ず何等かの根據ある記録なるべしと考へらる。小松の士の加州知が特に高歩たりしは、その越中知が新川郡のみにして不便なりしに據るとする改作雜集録の説を採るべし。然るに拾纂名言記に之を承應二年に係け、三ヶ國皆手上免五歩を上りたる内、三歩を給人増加したるなりとするは當らず。何となれば一作手上免は屢行はれたるも、永久的の手上免は明暦二年に在ること、之を村御印に考へて明瞭なりとすべく、その率も亦領内を通じて五歩に達する程度のものにはあらざりしなり。此等の書皆恐らくは正保三四年給人に三歩免上を許したること、承應三年越中礪波郡の一作五歩手上免を出願したること等の事實を混じて誤れるものなるべし。

 一、三 ッ 三 歩  加州先年より御給人に被下免
 一、三     歩  明暦二年より増免下候。其年は御藏返米被下、同三年より所付御直被下。
  〆三ッ六歩
 一、三ッ六歩五厘   越中先年より御給人に被下免
 一、二歩四厘七毛   着米免
  〆三ッ八歩九厘七毛
 一、二 歩 三 毛  越中明暦二年増免下候。其年は御藏返米被下候。同三年より所付御直し被下候。
  三口〆四ッ一歩   但能州も越中同前也。
 一、三 ッ 五 歩  能美郡先年より御給人下免
 一、二     歩  明暦二年より増免下候。
  〆三ッ七歩     ヶ樣に御座候得共、加州免三ッ六歩と有之に付、明暦後御給人に渡るは三ッ六歩被下候。
〔十村舊記〕
       ○

 三年目(承應二年)の暮に、十村共に被仰付百姓共手前以之外に仕直し申、殿樣御損被遊に、其禮に百姓共働可有事かと思召之由、前田七郎兵衞・伊藤内膳など十村共に申渡す。十村共も近年の作十分滿ち申事も、殿樣御慈悲の下る故也。内々下にて申合候間、彌惣百姓中に申聞せ、免を上げ、少し御恩を報じ申すより外は無御座とて、百姓共方より免五歩三ヶ國共に上るなり。是を手上免と申也。偖五歩の内三歩、御家中侍共に被下て、三歩免拜領と申也。其迄は平均越中・能州三ッ八歩、加賀知は三ッ三歩也。是より御家中の平均免四ッ一歩・三ッ六歩に罷成なり。其上に小松者には、越中知新川まで被下、遠方なるとて、小松者は加賀國三ッ七歩被下也。金澤に被召寄ても、小松者は三ッ七歩被下也。遺跡に罷成ては、三ッ六歩被下也。
〔拾纂名言記〕
       ○

 承應二年九月御家中の人々釆地、平均免を以て増し給はる。先知免は能登越中三ッ九歩、加州は三ッ五歩、小松の士は三ッ六歩なり。然るに此度越中四ッ一歩、加州三ッ六歩、小松衆には三ッ七歩平均に被下。依金澤より惣代の御禮として、前田丹後長時小松に參上す。小松衆は、萬治二年金澤へ引越後も、加州免元の如く被之。死後跡目のとき、一統の通り平均免にて被之。
〔改作雜集録〕