石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第六章 大聖寺藩治一斑

元治元年十二月幕府大聖寺藩に、明年夏闕下を守護すべく、又別に戍兵を攝津の西宮に出して姫路の兵に代らしめ、東叡山に戍せる兵を罷むべきを命ず。然るに大聖寺藩は、是より先屢兵を動かして失費甚だ多かりしを以て、慶應元年正月五日老臣前田主計を江戸に往かしめ、攝津の戍兵を免ぜられんことを請ひしも許されず。因りて四月九日利鬯は自ら京師に向かひ、老臣佐分儀兵衞以下七百餘人之に從へり。十六日利鬯洛に入りて南禪寺に寓し、後三日入朝して天盃を賜はり、詔に應じて南門を守る。この時將軍家茂は將に長州を征せんとし、五月二十二日を以てに入り、二十四日營を大坂に進む。しかも西宮に駐屯すべき大聖寺藩の士卒尚未だ達せざりしかば、幕府は大にその怠慢を詰問し、急に尼崎に命じて之に代らしめき。大聖寺藩大に驚き、使を大坂に遣はして陳謝し、僅かに西宮に隣れる打出村を守備するを許さる。乃ち遽かに京師に在りし利鬯の從兵を移して之に充てしが、後數日馬廻組前田織部・足輕組頭猪俣聰三郎の部隊の着するに及び交代せり。次いで閏五月二日加賀前田齊泰老臣村井又兵衞・篠原勘六以下兵四千を率ゐて金澤を發したりしが、四日大聖寺に次し、十三日に入りて建仁寺に舘せり。是に於いて大聖寺藩は津に代りて朔平門を守り、南門の守備は加賀藩之に當る。七月利鬯三閲月の期盡きたるを以て請ひて國に就かんと欲せしも、齊泰が疾により宿衞を辭せしが故に、尚利鬯をして代りて京師に留らしめ給ひ、而して齊泰は九日京師を發し、十八年大聖寺に宿し、二十日金澤に入れり。十月利鬯の歸期近づきしを以て、朝廷野々宮中納言をして詔を傳へて慰勞せしめ、御扇及び白布を賜ひ、且つ二本松主丹羽長裕の上洛を俟ちて交代すべきを命ぜられ、十二日丹羽氏の將士來るに及び、朔平門警衞を止む。時に利鬯久しく京師に在りてその費支ふる能はず、且つ降雪の期に先だちて急に郷に歸らんと欲し、廷臣に贈るに重幣を以てし、加賀藩も亦大に奔走せり。因りて十六日之を許され、利鬯は十八日京師を發し、二十五日に入れり。翌二年正月十二日利鬯官を進めて侍從に任ぜらる。蓋し去年禁闕を守りし功を賞せられたるなり。十月攝津打出村戍兵馬廻組頭井上唯輔・足輕組頭中村六左衞門に率ゐられてに歸る。これ前月幕府が勅によりて征長軍を止めしを以てなり。十二月利鬯令を下して舊來の軍法を廢し、海外の制に從はしむ。是に於いて士卒皆急に銃炮の技を學べり。