石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第六章 大聖寺藩治一斑

利之繼いで第九世の主となる。利之は利物の子にして、母を家臣前田信成の女とし、天明五年十月十七日大聖寺に生まる。童名は虎次郎、寛政十年二月二十二日主水と改め、文化三年正月利考の嗣となりて江戸に赴き、三月十四日遺領を賜ふ。次いで四月二十三日家督の禮を行ひ、六月初めて入部し、四年十二月十六日從五位下に叙し、備後守に任ぜられ、八年十二月十一日從四位下に陞り、文政四年十二月二十七日宗齊廣の請により、その待遇を進めて十萬石格とせらる。蓋し從來の本高七萬石の外に、新田壹萬石を加へ、且つ宗より年々廩米二萬俵を補へるに因る。但し宗の支給する二萬俵といふものは、實は金三百兩を以て之に代へしなり。大聖寺藩が十萬石格たらんと欲したる理由は、四品大廣間詰たりし諸侯中、歸邑賜暇の際幕府より上使を發せざるもの啻りこのあるのみなりしにより、その禮遇を得んことを希望したるものなるが、爾後幕府に對する負擔も亦十萬石格に増加したるを以て、益財政困難の一因となれり。天保六年十二月十六日利之侍從に任ぜられ、七年十二月十日大聖寺に卒す、年五十二。實性院に葬り、篤含院と諡す。利之性至孝にして奉養の道を盡くし、その民を治むるや、罪ありて死に當る者といへども、丁寧反覆これを鞫訊して爲に活路を求めんとせり。天保四年穀菽不熟、餓莩路に横たはる。利之乃ち賑給して領内一人の死者を出さゞことを得たり。隣境の民皆稱揚して仁君となすといふ。利之の正室は出羽松山侯酒井忠篤の女、嘉永五年七月二十九日歿し、貞壽院と諡せらる。

大聖寺藩邸及び附近