石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第六章 大聖寺藩治一斑

利直の同母弟に釆女正利昌あり。元祿五年七月九日利直の封を繼ぎし日、利直幕府に請ひて、領内の新田一萬石を割きて利昌を封ず。利昌時に齡尚幼なりしを以て、七年七月朔日初めて兄に伴はれて柳營に登り、將軍綱吉に謁して恩を謝せり。是に於いて利昌は諸侯の班に列したりといへども、その新田なるものは領内各地に開發したるものなるを以て、利直は彼に知行所附を與ふることなく、廩米を以て租入に相當する額を支給し、隨ひて別に名を起さしめざりき。利昌の邸江戸に於いては初め千駄木に、後に池之端に在り。大聖寺に於いては初め荻生に、後に新町に在りき。既にして寳永六年綱吉薨じたりしが、二月十六日新將軍家宣上野寛永寺に至りて靈廟を拜せんとするを以て、東山天皇は故例によりて前將軍の官位を進め諡號を賜はらんが爲、勅使内大臣今出川伊季・院使大納言醍醐昭尹・東宮使中納言小川坊城俊清・女院使參議綾小路有胤・中宮使參議中山兼親・大准后使三位町尻兼量をしてその式に列せしめ、宣命使少納言平松時春は宣命を朗讀し、天皇及び上皇の納經を捧げ、終りて塋域に詣で、饗を寛永寺の子坊惠恩院に受くべく豫定せらる。或は曰く、その寺號は顯性院にして、惠恩院は住職の號なりと。而してその際利昌は中宮使の接伴となり、大和國柳本主にして一萬石を領する織田監物秀親は大准后使の接伴たるべき命を得たりき。然るに秀親は身幹魁偉にして劍を善くし、且つ禮典に嫻れしを以て屢利昌を侮蔑せしかば、利昌は之を恨み、機を得て彼を害せんとの志ありき。利昌の臣木村九左衞門、利昌の秀親を怒るを察し、短慮によりて社稷を危くするなからんことを忠言したりしといへども、尚未だその殺意あるを知らず。法會の前夕利昌は、淺野長矩が吉良義央を弑せんとして志を遂げざりしに鑑み、之を打つと之を突くと何れか目的を達するに適するかと問ひしに、九左衞門は利昌の常に武技を好むを以て之を諮りしなりと考へ、爲に慇懃に説く所ありき。是を以て利昌が寛永寺の奧書院に於いて秀親に會するや、先づ敵の右手を押へ、その胸を突きで致命傷を與へ、第二刀を以て肩を斬り、第三刀を以て咽喉より口に刺しゝに、秀親はその膂力と武術とを施すの隙なくして絶命せり。時人狂歌を作りて『織田殿はけんもちながら手もさゝで釆女のきみのさかづきになる』といひしもの是なり。利昌の臣岡田彌市郎、喧騷の音あるを聞きて馳せ至りしに、時尚黎明にして人面を識別する能はざりしかば、利昌は刀を揮ひて之を傷つけ、彌市郎のその名を言ふを聞きて止めり。九左衞門乃ち利昌に勸め、急に病起ると稱して駕を命ぜしめ、彌市郎も亦隨ひしが、その舘に歸りて下座せしとき流血袖裏より溢れ、遂に昏倒せり。葢し彌市郎が羽二重の小袖を襲ねたるを以て、自己の流血悉く潴溜せしによるといふ。彌市郎老後その刀痕を兒孫に示して曰く、これ先君の賜ひし記念の痕なりと。一皆彼の忠志を感賞せり。利昌の秀親を害せし時、高家の輩多くその附近に在りしが、呆然として徒らに傍觀し、一人の之を制止せんとするものなく、而して秀親の臣門外に在るもの、夜の明くるに及びて初めて變を知りしも亦僅かに喧騷するに止れりといふ。以て當時士風の優柔に赴けるを察すべし。幕府乃ち利昌に代ふるに増山對馬守正任を以てし、秀親に代ふるに本多若狹守助芳を以てし、大目付松平石見守乘邦・目付久留十左衞門正清及び伊勢平八郎貞勅を遣はして利昌を石川主殿頭義孝の邸に拘禁せり。尋いで十七日寛永寺法會終りたるを以て、翌十八日大目付横田備中守由松・目付伊勢平八郎貞敕・牧野傳藏成凞を石川氏の邸に派し、利昌に死を賜ひき。利昌時に年二十六。利直その遺骸を收め、眞源院と諡して下谷廣徳寺に葬る。是に於いて利昌の家亡びしも、舊領一萬石は四月十二日これを利直に還附せられ、秀親の遺領も亦弟左成純をして繼承せしめき。利昌がこの事あるに及べるもの、固よりその熟慮の結果に出でたる行動にして、翰譜にいふが如く俄かに狂氣したるが爲にはあらざるなり。思ふに將軍綱吉の政を爲すや、多く華美を尚び儀禮を重んず。これを以て典故に慣れたる者往々にして他を侮蔑し、爲に自ら禍を招きしものあり。後將軍吉宗の時慶弔に朝使の東下を辭したるは、その目的首として幕府の費用を節するに在りたりといへども、亦兼てこの禍源を除くが爲なりしといふ。初め利昌の事變あるや、藩臣江戸邸に在りし者之を大聖寺に報ぜしが、その書最も前後の事情を詳悉するを以て、今之を左に掲ぐ。この日宗前田綱紀大聖寺侯の邸に急馳せるの状は、また之を松雲公夜話追加によりて見るべし。

 今般爰元之儀、先達而追々御承知と存候。誠に奉言語事御同意奉存候。此表世上取沙汰此儀のみと承及候。去迚は御勇者と申迄に御座候。織田殿は大男、小倉勘左などよりはまだ大ぶりにて大上戸大力もの、常に酒の肴には碁盤の上に鐵炮五丁のせ力持などする人。其上中太刀づかひにて、不斷中油斷なき大曲者、諸大名ともに近付の方は曲者とも見候ひし程の仁に御座候よし。然る處運の盡は不力、初發右之手を御押、其儘右之胸先より御突込候。一くり御くり候へば六七寸廻り裏迄御くり付、二刀めに肩先より御打込候得者、大げさに黄皮少掛り、三刀目に咽より口へ掛て御突裂候へば首半分許り懸り、とかくに手を一つ出す間もなく是はと一言申より外はなく候由。公家並に高家なども近々と右之樣子見分仕候得共、其座の樣子鬼神も寄がたき躰故、何茂戸障子をたて引込申よし。二刀め御切付の時、彌市郎(岡田)御側え懸け付候而御太刀先當り候。是も彌市郎と思召候はゞ何事も在間敷候へ共、闇候故御見付なく、外之者と思召御なぐり被成躰に候。彌市郎上申上候へば、御刀其儘御かこひ候處へ、九左衞門(木村)殿馳付被申候。夫より只御引取と申候て式臺の脇へ御出、寺之門外迄御出被成候處え、外表向之爲御用中川七左衞門相諸候、此仁かけ廻り候て御駕早く出させ、直に御召、安達新五右なども、漸とそこへ參合、彌市郎・九左殿二三人御供、夫々段々御供人もかけ集り、何事なく池端通り御歸宅。九左どの御跡乘何くはぬ振にて御座候。半途より此方(コナタ)へ九左どのより御案内、大方七時過と覺候、御急病にて御宅え御引取と申參候故、殿樣(利直)にも其儘御出、主殿(村井)殿始として吾も〱と追々驅付候所、右之御樣子にて御座候。御本宅へ被入、御衣類など被召替候て、何之御色合も御見え不成候。帶刀前田孝始)殿・彌兵衞(本多)殿などへ、殿樣御出掛に早乘使にて御案内故、是も即時に御出候。本多彈正樣上野御用に御打詰被御座候。右之趣に付て、惣御奉行大久保加賀守(忠増)殿え御伺候へ者、先々釆女殿御宅へ被罷越、樣子御見屆、御家來等御取しめ可成候。傳奏屋敷に家來共可罷在候間、是へは本多彌兵衞御指遣縮(シマリ)御申付、尤早々引拂候樣に可成との御指圖にて、彈正少(前田利隆)樣も七半過に被入、夫々段々御下知にて御座候。御本宅え御引取候事何共御心得被成がたく候故、殿樣より、即刻大久保殿又御用番へも御目付へも御案内早使被遺候處、是亦一段之御首尾被成候。其内淡路守(前田孝武)樣なども御出候て何も御立合之上、木村氏并岡田彌市郎口上書など出來、精誠御吟味にて、先達て其元へも寫し參候趣に御座候。追付彈正少樣、御用番小笠原殿え御持參被成候。長門守(前田利興)樣にも六時より御出、晝過迄被御座候。又暮合より御出、御預けに御越迄御取持。朝五前迄に御一門樣方不殘御案内相濟、段々に御出御請被成候。相公(前田綱紀)樣は四時に御出、是も半時許被御座候。若狹守(前田吉徳)樣五半頃に御出、晝過被御出候。御客方不殘釆女樣御對面思ひ〱の御挨拶の内、相公樣今に不始事ながら御頼母敷御名言、此方殿樣結構成思召之御口上に而、さすが此節之御得道にも可成事哉と奉感候。夫よりして尚々御平生の通り、御食事も被召上御休息に候。同夜五時過に御預けと申御沙汰相知れ、段々の御用意に候故手支もなく候。四時に御目付中被參、被仰渡を被述と其儘御駕へ打のせ大勢附添罷越候。此節上下の心底御察可成候。御客樣方を始方々御付使者、此方式に至迄一言も出不申、只奉愁事に候。夫より段々に何も御退去にて御座候。殿樣夜九過に千駄木に御見廻被成、直に御歸宅。釆女樣御屋敷には上下の道具候ゆゑ、御屋敷内方々の固彼是之御用、主殿(村井)殿初役人中不殘、十七日晝迄罷在、そろ〱形も付候。夫よりはあなた役人中と此方御用人以下の役人中立合候て、二三日以前迄に透(スキ)と仕舞、掃除迄も相濟候。然るに今に上り不申故、番侍以下多く入り申事に候。
 十七日何の御沙汰もなく、十八日も晝の内は何事もなく候故、御切腹などは在間敷哉と取々區々の事のみに候處、暮少過に主殿頭(石川)殿御留守居より手紙到來、只今御切腹相濟候と案内に付、又わかやぎわつとこそ申せ。上下とも力もなく、かく申ても不埒明候故、其儘御死骸引申御用意ばた〱致候中へ、本多彌兵衞殿御出被成候て、御切腹之事小笠原(佐渡守長重)殿より被仰渡之上意被仰述候。帶刀殿なども御出、旁御示談相濟、追付爲受取木村氏・中澤久兵衞・菅谷平太、其外釆女樣にて名有侍中不殘被遣候。あなたにて段々次第にて請取申候。主殿頭殿被成方、とかくに前後難申叮嚀成る被成樣、御遺骸の認抔も急度致したる御衣服召させられ、箱入内詰の樣子、御駕籠などの結構さ、とかくに一々難申盡、直に廣徳寺え御移り候。御葬送十九日の晩と御定候へ共、淨光院(前將軍綱吉室)樣御尊躰十九日に上野へ被入故難成、左樣にも御延被候事も氣遣しきとの事にて、卒に同夜中に揉立御用意出來、十九日曉に御葬送相濟、土葬にて被成候。主殿頭殿被申候者、御歴々の事に候得者、御預之作法在之とても左樣には成り申間敷候間、隨分成だけ御馳走可申上とて、何事も構なく丁寧成御馳走共、中々無申計との御事。御切腹のとき、大目付其外の御目付中上意を被述候得ば、上意之趣奉畏候とて見事なる塩合之御請急度被仰、其儘其場へ御のぞみ、御介錯之御徒目付へ御挨拶、是より詞を掛候迄被相待との御意にて、式法の如く三方引寄、刀御取御座候と御腹へ不當光に打申事を何も秘事に致し罷在候處、三方御引寄と見るかと思へばはや御胸先へ御突立、一文字に深々と御引付被成候。少々跡へんに罷成候得共不力其儘打懸候へば、只一打何之苦痛もなき御最期との御事。さて〱花やかなる御有樣。御目付中・はげしき主殿頭殿さへ、前代未聞いまだ御若輩に候處見事なる御生害、生置ならば御用にも可相立御仁、去迚は惜事哉、責て顏色一つ不變、見事成る有樣とて何も落涙、暫時は物言ふ人もなきとの事に候。公儀よりも終に無之事は、切腹人不大小名書院内と申儀は御當家(徳川氏)に無之、何も白洲に候處、いかなる事に候哉、書院の縁側疊の上と備中守(横田由松)殿被申候故、御座敷の内にて御座候。兎角被仰山ともに、御樣子は殘處もなく宜候へども、ヶ樣之事は何にも不成候。殿中を初江戸中只々譽申のみ。第一御月番小笠原殿抔大感じにて御座候よし。
 殿樣(利直)御遠慮も早く御免、是又ヶ樣成る事もなき由に御座候。御忌中ゆゑ、御名代爲御禮長門守(前田利興)樣方々御廻り被成候。御座敷も緩々と御取拂可成と佐渡殿(小笠原長重)より申來り、今以上り不申候。木村九左衞門どのも昨日落髮、道齋と被改候。殿樣よりも段々御懇意に御座候。藤田十郎右衞門も落髮致し候。是も御懇に御仕被成候故と申、御墓にて其晩にきり申候。彌市郎もいたみ大方癒着申候。併今以すまん物と申候。兎角に木村・岡田を、旦那(利昌)樣に次では世上に譽申よしに候。
 織田氏死骸、漸と十六日の晝芝の屋敷へ引候由。御成御座候故いかう指支申躰に候。家來ども上野に詰ながら夜明候迄は曾て不存、夫より仙石丹波守(尚久)殿にだまされ屋敷へかけ戻り申との事。少々さわぎ候故、仙石殿の働天下一と申ならし候。此外取々口々批判のみ候へ共、唯々奉譽計に御座候。
    三月五日(寳永六年)
〔秘要雜集〕
       ○

 釆女(利昌)殿上野御法事之節公家衆御馳走、織田監物殿と同事に御勤被成候處、御宿坊にて樣子茂有之候哉監物殿を御討果、釆女殿は早速御宅へ御歸被成候。其節御案内御座候とひとしく御裏(綱紀)付御上下の上に御袷羽織被召、御馬上御はや道にて飛騨守(利直)樣御屋敷へ御越被遊候。飛騨守樣御門前にて御下乘、御羽織を被取私(中村典膳)受取申候。御入被遊暫御間有之、御歸舘あそばされ候。其以後御意御座候者、釆女殿御座候御間え飛騨守樣御誘引に而御越被成御對面、其節飛騨守樣御挨拶に、何にても申上る品有之候はゞ可申上旨被仰候得共、采女殿一向何の事も不仰候。松雲院(綱紀)樣如何御意御座候哉、其儀者拜聽不仕候。
〔中村典膳筆記松雲公夜話追加〕

山崎權丞宛前田利昌書翰(右筆) 江沼郡山崎和夫氏藏