石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第六章 大聖寺藩治一斑

利明利常の庶子を以て生長し、出でゝ支封を襲げりといへども、氣宇快豁にして頗る堂々の風を備へ、諸士に接するに懇切なりき。利明放鷹に出づるとき、歸路或は卒然として士人の邸に入り、欵語數刻に及ぶことあり。その途上士人に遇ふときは、彼等の徒らに默拜するを喜ばざりき。曾て一士あり、利明を拜せんとするや事唐突に出で、笠紐緊縳して解くこと能はざりしかば、力を極めて笠を引きしに、その臺のみ頭上に殘りたるが、忽ち頭を垂れて侯の健在なるを祝せしに、利明は莞爾笑を忍びて去れり。是を以て諸士利明を畏敬すれども亦親愛の念を絶たず、上下否塞の憂なかりき。利明平生文を嗜み武を好み、林道春の門人河野春察を祿して經史を講ぜしめ、山鹿素行の門人たりし高橋某及び千田某を招きて孫呉を説かしめき。又鐵炮鍛冶國友某を近江より召し、城内に留りて大炮を造らしめ、その中最も精巧なるものを擇び、自ら銘を録して震天雷といへり。利明また意を殖産に注ぎ、龍骨車を大坂より得て灌漑に便ぜんと謀り、藩士今井儀右衞門・東野瀬兵衞をしてこれを右村の稻田に試みしめ、山代村に五町歩の地を劃して竹林を造成し、樫實を肥前天草より輸入して大土村に播種し、或は茶實を山城より購ひ、各村の草高に應じて之を分配し培養に努めしめき。寛文五年六月利明命じて大聖寺川の上流より瀬用水を疏通せしむ。この用水は、寛永二年尚加賀藩領たりし時、城代吉田伊織が下僚久世徳左衞門宗吉に命じて造らしめたるものにして、山代新村の開墾に便ずるを目的とし、設計頗る不完全たるを免れざりしが、利明は更にその規模擴大したるものにして、引水口の巨巖を穿ちたるも亦この時の工事なるが如し。瀬用水の灌漑區域は、その大なること現に郡中各用水の第一に居り、農家の之が慶澤に浴すること甚だ多し。延寳元年六月利明城下に於ける大聖寺川の水路迂餘曲折して屢汎濫の害を與へしを以て、新川を開鑿して舊水路を埋めしめ、次いで四年には中田村の農五郎兵衞足輕小頭栗村茂右衞門を添へて加賀藩領河北郡二俣村に赴き抄紙の法を學ばしめ、これを中田・上原・長谷田・塚谷諸村の副業とせり。是等のこと概ね老臣神谷内膳守政の輔佐畫策せし所に係る。六年利明又内膳をして、片野村の山腰に隧道を通じ、大池の潴水を海に導き水位を低下せしめて沿岸に美田を得、七年更に内膳に命じて矢田野新開の事に從はしめき。内膳乃ち下吏廣橋五太夫を率ゐ、十一月矢田野に赴きて江筋の繩張を開始し、八年二月下旬小手ヶ谷水道の堀鑿に著手して用水の疏通を謀り、八月二十三日草高千八百三十一石二斗一升三合の新開を完成せり。大聖寺の産業にして利明の時に起れるもの實に多しといふべし。

 矢田野。延寳七年十一月神谷内膳矢田野へ罷越、廣橋五太夫新開江筋見立繩張す。同八年二月下旬江筋普請初り、八月廿三日成就、矢田野へ水下る。于今八月廿三日矢田野鎭守勅使領寳江山祭禮有、慈光院(大聖寺)罷越相勤。同日夜中村の宮にて角力躍の節御紋付灯燈を燈事於今昔の通也。○普請成就八月廿三日、勅使村にて角力を取、動橋川を堺に東の方關を取らば、矢田野へ灯燈を可渡、西の方關を取らば大聖寺へ灯燈を引と定。此灯燈は那谷領小手ヶ谷くり貫普請の時、兩方に一張づゝ燈たる灯燈也。偖高塚の大仁藏と云者關を取。夫より于今矢田野祭禮に御紋付灯燈を燈と、村叟云傳。
〔江沼志稿〕