石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第六章 大聖寺藩治一斑

利治資性穎邁にして士を愛すること最も厚し。一日放鷹を加賀藩領能美郡に試みしに、偶土民の馬に騎して侯の前路を進むものありしかば、利治乃ち從臣山井某に命じて之を斬らしめき。利常時に老を小松城に養ひしが、これを聞き嚇怒して曰く、飛騨の家臣暴戻決して恕すべからずと。因りて命を傳へ山井をして蟄居せしめ、次いで彼を自盡せしめんと思へり。是に於いて利治自ら馳せて小松に抵り、山井の爲に罪を謝し、且つその生命を請ひしも聽されず。明日又往きしも同じく利常の拒む所となれり。利治愁然として歸り、途月津村を經て馬を佛寺の門前に飮ましむ。時に從臣深町某利治に説きて曰く、小松老侯の頑固も亦甚だしといふべし。然れども君若し眞に山井を救はんと欲せば、直に馬首を回して三たび之を懇請するに如かざるなりと。利治以て然りとなし、即ち又小松に到りしに、時已に夜半にして利常の寢に就ける後なりき。利治因りて近侍の士を介してその意を述ぶ。利常曰く、飛騨の士を愛すること實に感ずるに足れり。宜しく彼のために山井を赦すべしと。利治大に喜び、深町をして急に馳せて旨を山井に傳へしむ。山井感激措く能はず、郊外に出でゝ利治を迎ふ。利治曰く、これ余の恩にあらず、深町の力能くこの事あるを致しゝなりと。その眞率にして自ら誇らざること概ね此の類なり。利治また心を民事に用ひ、尻谷の銅山・九谷の陶器など皆自ら考覈して創めし所なりと言はれ、その時務を研究するときは胥吏に對しても尚親ら筆を採りて下問する所ありしといふ。利治の世は、戰國尚武の氣漸く稍磨せんとする時に當り、士風稍懦弱に流れ、奢侈の俗起りて生計の資足らず、足輕にして盜を爲すものすらありしが、利治之を罰すること極めて嚴峻なりしかば、能く奸惡の跡を絶つことを得たりき。

 同年(承應元年)大正持にて、在々所々へ五人七人の同類にて夜盜に入、家内の者をしばり置て敢て出るも有、切殺し敢て行も有、御吟味有て捕へんとすれども知れざりけり。或時下粟津村(江沼郡)の肝煎方へ押入て切殺し、家に火をかけ立退にけり。又或時潮津村(同郡)の肝煎兵左衞門所へ七人忍び入所を、亭主心得たりと起上り、來國光の二尺八寸是にあり、一人もあます間敷とて刀を拔出ければ退散して見えざりけり。或時江戸詰の足輕の家へ亂入、女と子供二人切殺し、家の内に埋て家財を引丸げ取て行。玉井市正・織田左近其外人々、憎き次第也、いかにもしてあらはさんと、日々夜女の談合の所に、下粟津村の百姓彼夜込の時に人影を見て大正持へ跡を付入て見れば、渡遷八右衞門預りの足輕町へ入と見屆、覺束なくは思へ共卒度家老中へ内通す。渡邊八右衞門所に馬捕の耳のきこえぬ者あり。三年耳ふさがりて更に聞ことなし。此者常に人々の言葉をきけば、預り足輕共いたづらをすると思ひ入て、猶耳の聞えぬ体也。盜人共二三人寄合て、彼足輕の宿へ馬捕をつれ行て道具をもたせて來りけり。猶以仲間(チウゲン)は知らぬ躰にて、何を預けて置れたるやとしらぬ躰にもてなし、是は大事成べしと俄に耳あきに成て、八右衞門にひそかに品々の事を告しらせ、此三年が聞耳をつぶし罷在といへども誠の耳聾にて候はず。夫故に言葉の末を聞請て委細に申上る由申ければ、八右衞門は、能こそ知らせたれ、猶々耳をつぶしをれと暫く思案せし所へ、御家老衆より召され登城して相談を承り、我等に御まかせ候へと宿へ歸り、大將とかしづく戸澤長右衞門と云足輕を居間まで呼で、爰へ近くよれ御用申渡べしと近々と呼ければ、長右衞門は脇刺を拔て脇に置て這ひ寄ける所を、八右衞門押へて繩を懸、奧の露地へつれて行て柱にくゝり置、又中林彌七郎を右の通りにしてからめ捕て同所にくゝり付置、四人まで搦捕てくゝり付、又二人は式臺に帳と算盤置て勘定して有けるを押伏、手分けして搦捕しなり。六人の内に成人の子二人あり、是も家々にて搦捕。都合九人を籠舍させ、御吟味被仰付し處に一々白状に及ぶ。(中略)扨九人の夜盜共・下口(シモグチ)の山際にならべて火罪に被仰付。幼少の男子を盜人共の目の前にて首を打、親々になげつけゝれば、其首を抱へて黒燒に成て死にけり。夫より盜賊少もなく、御領分の者共心安く臥にけり。
〔三 壺 記〕

前田利治書翰 江沼郡實性院