石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第六章 大聖寺藩治一斑

利治の封に就くや宗より分かたれて之に從屬せし士凡べて百六人、その知行合はせて四萬五千石に及ぶ。就中高祿を食みし者に玉井市正の四千石、織田左近・神谷治部・才監物の各三千石、山崎庄兵衞・梶川彌左衞門の各二千石、水野内匠・脇田帶刀の各千五百石、渡邊八右衞門の千二百石を食めるありき。後玉井市正は五千石に進み、織田氏は二千五百石の織部と五百石の八太夫とに分かれ、渡邊八右衞門は千六百石となりしが、水野内匠外二十人と共に、財用繼がざるを以て承應二年之を加賀藩に返還せり。

 十月十二日(寛永十七年)に、飛騨守利治江戸御發駕とぞ聞えける。御家中の士共、去秋より當年にかけて引越、町家に居も有、作事して入もあり。織田左近・玉井市正・脇田帶刀・神谷治部、御家老なり。其外に田丸兵庫助・山崎庄兵衞・梶川彌左衞門・才監物・渡部八右衞門・村井勘十郎(左衞門カ)・佐分利儀兵衞・内田太郎左衞門・樫田主水・前田勘右衞門・猪俣助左衞門・河池才右衞門・深町孫市・岡崎安左衞門、其外の士・與力・歩士等追々に引越す。十月十日(十七年)に大正持大地震ゆり、町家悉く破壞し、押倒され、人馬死する事夥し。武家も家破却して、作事出來せし人は、二度造作に成にけり。其地震金澤までもひゞき、堀・溝の水を道路にゆり上る程の動き也。扨利治公は、御著の日直に吉崎邊へ、御鷹野に出させ給ひて、御入城をぞ被成ける。其翌年江戸御參勤時分迄、御作事御露地等御普請仰付けり。
〔三 壺 記〕