石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第九節 版籍奉還

前田齊泰は第十二世齊廣の長子にして、母を藩士小野木之庸の女榮操院といへり。文化八年七月十日金澤に生まれ、幼名を勝千代といひしが、文政五年八月初めて江戸に往き、同月二十八日名を勝丸と改め、同日また犬千代と稱し、翌二十九日更に又左衞門と稱し、諱を利候といへり。九月十五日初めて將軍家齊に謁見し、十月四日首服を柳營に加へ、正四位下左近衞權少將兼若狹守と改め、偏諱を賜はりて名を齊泰と改む。同年十一月二十一日齊廣致仕せしを以て家を襲ぎ、二十二日加賀守と改め、十二月十六日左近衞權中將に進み、七年三月十三日暇を賜ひしを以て、四月四日に入部せり。次いで天保二年十二月朔日參議に任じ、中將加賀守を兼ね、十年十二月朔日從三位に叙せられ、安政二年十二月十五日權中納言に陞り、元治元年五月十三日正三位となり、慶應二年四月四日致仕せり。廢の後明治四年九月東京に移り、十三年五月十八日從二位に叙し、十七年一月十五日病篤きに及び正二位に進められ、十六日を以て根岸邸に薨ず、齡七十四。諡して温故公といひ、神葬式によりて日暮里の塋域に葬る。齋泰能く父祖の遺訓を奉じ、心を皇室に傾け、大禮ある毎に必ず方物を献じて崇敬の意を致し、安政元年皇居燒失の後には、二年十二月金十五萬兩を献じて造營の功を助けたりき。齊泰人と爲り温厚にして端麗、最も節義を重んず。夙に學を好み、圖書を校刊し、學制修補し、洋學及び洋式兵術を授けしめ、また農制を釐正し、義倉を設け、凶歉には租米を蠲除し、疾疫には貧民に藥浴を施さしめ、刑律を寛にする等の善政あり。幼より能樂を好みてその技に長じ、書はこれを市河米庵に學びて筆法最も遒勁、普く世人の賞揚措かざるところなりき。

前田齊泰畫像 侯爵前田利爲氏藏