石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第八節 本多政均の遭難

沖太郎以下連累の訊問は、多賀源介・岡島左膳・永原甚七郎によりて屢回を重ねられたりしが、九月二十八日には彈正臺より出張したる筧大巡察・大久保少巡察等も亦の刑獄寮に臨みて二人を鞫問し、その事情略闡明するに及び九月晦日最終の口供書を作製せり。

                       三等上士山邊沖右衞門嫡子
                              山邊 沖太郎
                                 巳二十六歳
                        一等中士
                              井口 義 平
                                 巳二十一歳
      口 上 書
 私共儀、當八月七日於殿中本多從五位を及暗殺候に付、於刑獄寮御吟味旨御下知之趣申渡、奉其意候。
 私共儀本多從五位を可討果と存込候に付、同志之者も可之、如何之所存に而今度之及所業候哉、猶更始終之樣子委細可申上旨御吟味被成候。
  沖太郎・義平は、縁家之事故別懇にて、御國事向之事共色々申合罷在。今度大政御一新に付ては度々被仰出も有之、右御趣意を厚奉戴仕、御國事に勉勵可仕与存罷在。然處兎角御國政向難立事共多有之、上下一致不致、御中不平を懷候者不少、百姓困窮罷在候者も多、毎度御布令も有之處、右御趣意不貫徹哉にも相聞得。右は奸吏共之所爲にて、依怙之振舞多、不大義に付右樣之儀も出來可仕と存、何れ執政等之内え可論判抔と、去々年以來私共兩人迭に論じ罷在。岡野外龜四郎は豫め心易事故毎度罷越、右等之次第致議論罷在。當春頃に至候ては彌増御國政難相立事共多有之、依て段々探索仕候處、右は全く本多從五位之所爲にて、同人儀奸侫邪智を振ひ、面諛收歛之者を選擧し、恐多くも御兩殿樣(齊泰慶寧)を奉雍蔽、上下之情を否塞し、誠忠之者を指除、依怙之所置を下し、都て御布令之御趣意不貫徹事にのみ取計、御國害を釀候樣之所業多有之、此儘に成寘候ては御國威も難相立。尤右等之次第建言仕候ても、右從五位執柄罷在候中御採用は有之間敷、何れ奸惡之巨魁に付、討果候得ば御國事之御爲宜儀と、私共兩人一圖に存込、菅野輔吉・土谷茂助えも右心底之趣申明し同志に罷成、迭に毎度申合罷在。岡野外龜四郎えも右等之赤心申明し候處、同人にては右樣過激粗暴之致振舞候ては、却て御國難を可引出、急度可思慮旨等申聞。其頃同人弟悌五郎にも知合に罷成、右赤心申明候處、外龜四郎同樣及説得候得共、段々見聞之次第委細申入、何れ討果候より外御爲に可成手段無之旨等、外龜四郎・悌五郎え打返度々申入候處幾重にも諭方之趣難承引儀に候得ば無是非次第、同志之者如何共可致旨一旦申聞候儀も有之候得共、重て外龜四郎段々申聞候は、何れにも私共了簡一篇相改、何卒他國致勤學等、得と見識相立候上如何にも御國事に可盡力旨等段々及説得候に付、於私共も深思慮仕、尤之儀と致會得其了簡に罷成候處、外龜四郎も安堵の躰に而爲勤學東京え致發足候儀に御座候。然處其後猶又前段之趣打返勘考仕候得ば、何共御國政難立事共多有之、此儘傍觀罷在候ては臣子之分不相立、何れ一命を抛本多從五位を可討果と私共重て致奮發菅野輔吉・土谷茂助えも委細申入候處、兩人共尤之儀と同存に罷成。猶又岡野悌五郎え度々及示談候處、同人にては、何れにても可思止、外龜四郎東京え發足前に申聞も有之候間、同人方え申遣了簡之趣承り、其上にて致決心候はゞ可然旨等申聞罷在。同人之信友之由にて石黒圭三郎と申者えも、悌五郎より私共赤心之趣申明候由之處、圭三郎も悌五郎同存之由同人より承り、沖太郎は知合に不成、義平儀は圭三郎東京え發足前に一面會いたし候得共、初ての事故心底之趣申合候儀は無之。其後多賀賢三郎・岡山茂・松原乙七郎・富山杏百太郎、右人々も御國事に致盡力罷在候由悌五郎より承、私共赤心之趣も賢三郎等え悌五郎より申明候由にて、迭に面會致と申事にて、當五月賢三郎方にて致集會候儀も有之。然内近頃次第に窮民多、何分傍觀不忍事共多有之、何れ彼巨魁を可討果と悌五郎え逼り毎度申入候處、同人申聞候は、左程存込候儀に候はゞ、上坂丈夫と申者は有志之者に付、何茂同道罷越及示談了簡承と申聞、其心得に候處、悌五郎存寄も有之、殊に外龜四郎方え申遣置候儀有之候間、右報告有之候迄上坂え罷越候儀は見合可然と申事にて、私共上坂には一面會も不仕儀に御座候。賢三郎之心底承り候處、同人にては幾重にも建言等仕候にも御採用無之時は、無是非奸賊は可討果場合え可立至、致粗暴之儀候ては不御爲旨申聞罷在。茂・乙七郎も賢三郎と同存之由に候得共、直に何等承候儀無之。却而乙七郎抔は、私共右樣之所業は致間敷抔与疑心相立罷在候と申噂承候儀も有之。私共にては最早今度は思止間敷と決心仕候事故、菅野輔吉・土谷茂助・並私共四人申合、豫致鬮四人之内兩人にて可討果と約束仕置、賢三郎等えは態と何等も不申入。當七月二十七八日頃悌五郎方にて則致鬮候處、私共兩人鬮相當其覺悟に罷成。豫存込之趣意上書に調、達本意候上は御達申上度と存居候得共、不學之事故其儀不仕、依て右調筆方等悌五郎へ相頼置。當八月二日義平・輔吉・茂助・賢三郎・百太郎都合五人悌五郎方え打寄。沖太郎は不罷越、百太郎は用事有之由にて早く罷歸。其跡にて赤心之趣段々申合、前段之次第私共深く存詰、是非只今之内可討果と致決定、則同心、六日・七日之内と日限相極。其後外龜四郎方より報告有之由にて義理明瞭之事件に於ては豈太政官向より不御不審哉。何れにも私共致他國勤學可然旨等申越候由、同四日悌五郎より承候得共、最早決心之事故致聞捨置。同五日多賀賢三郎方にて可集會与之約束にて、則同日私共兩人並輔吉・茂助・悌五郎・茂・乙七郎都合七人打寄。其節右上書も出來に付私共判形之上致懷中、酒宴も有之色々咄合罷在。首尾能遂本意申、御政事向御一洗之儀等跡々之儀は、幾重にも奉建言等盡力旨人々申聞罷在、夜に入罷歸。何れ殿中に於て討果候得ば可然と私共兩人申合。翌六日朝右從五位之登城相待候得共、終に登城無之、空敷致歸宅。翌七日朝致出宅相待候處登城之樣子に付、兩人共先え立、二の御丸新口より御廊下へ出、刀を下に置、左右え振別れ相待候處、折能外登城人も無之、本多從五位儀一人通掛候に付、最初沖太郎儀及挨拶、脇刺を以て横腹を突込候處、何をいたし候哉と被申聞候得共答も不仕。義平儀及挨拶、引續短刀を以て同樣突込、打倒候を沖太郎儀頭上へ打込、引重咽右之方え深切込及殺害、最早遂本意候に付其場に座居御下知を相待、則頭迄上書指出申候。右段々申上候通次第にて、初發より私共兩人致主張菅野輔吉・土谷茂助えも委曲申入候處、尤之儀と申聞同心に罷成、鬮取も仕候程之儀に候得共、悌五郎・賢三郎等にては、粗暴之振舞致間敷旨始終申聞指止罷在、種々預説得候儀も有之候得共、私共にては右説得之趣一圓承引不仕、最早思止間敷と決心仕候に付、悌五郎等も不止事私共了簡に任置候躰に御座候て、悌五郎等之心中と私共兩人之所存とは甚相違仕候躰に御座候。殊に外龜四郎抔は、東京え發足前に同人説得致通會得、他國勤學之儀可願立心得に罷成候儀にて、尤同存にては無之。然處先日より御糾之節、右等之區別不相立、私共赤心之趣申明、敢て可訴出与申了簡にても無之、上書迄も頼置候程之事故、右人々は不殘同志と心得、申上方不都合之趣も有之、悌五郎申分相違仕候に付、同人と對決之上段々御糾之處、上坂丈夫之儀は今度之一件に付聊も不關係人にて、悌五郎へ私共度々迫申入候に付、當座之策略を以て丈夫え可示談と申聞候儀有之に付、同人も致關係候事に申上候儀有之。且右上書悌五郎え頼置候得共不調、土谷茂助草稿致持參候を、多賀賢三郎方え相送候處同人清書相調候譯にて、都而私共最初存違之趣等申上、甚不行屆儀にて奉恐入候得共、悌五郎と段々申合候處、前段之通双方申分符合仕候儀に御座候。
 多賀賢三郎申分にては、杏百太郎は有志之者に付、御國事向之致咄合候儀は度々有之候得共、元來同人は富山中之儀、殊に年若者に付、私共赤心之趣聊も不申明旨申上罷在。松原乙七郎申分にては、私共奸賊を可討果と申居候咄を、悌五郎か賢三郎か兩人の内より承候儀有之候得共、坐興咄と心得、左樣之儀は難出來と打嗤罷在。其後當八月五日、約束は不仕指掛夜中賢三郎方え咄に罷越候處、何も打寄酒宴も有之色々咄之内人々之口上振にて、今度之一條初て察之筋相立候得共、委細之儀誰よりも何等承り候儀無之旨申上罷在候由爲御聞、此儀如何と御糺被成候。
  百太郎・乙七郎には私共兩度付合候迄にて、尤直に赤心之趣申合候儀も無之、賢三郎等より委曲申明候儀与心得居候得共、賢三郎・乙七郎右樣申聞罷在候上は、兩人申分通之儀与今更相心得候儀に御座候。
 本多從五位儀奸惡巨魁と存込候證據、委細可申上旨御糺被成候。
  前條荒増之趣意申上候通にて、枚擧致し候儀は何分不辯之事故不都合之儀も可之、其上別に証據と可相成書物も無之、只事實に當り見當之趣を以巨魁と存込候儀にて、重き御政事向之儀を下として批評仕候儀實以奉恐入候得共、段々御糾に付無忌憚左に申上候。元來本多從五位儀不大義、自己之權威に募り御兩殿樣を奉雍蔽、恐多も種々御難事を申上、從三位慶寧)樣を押て御隱居被遊候事に取計、總而御政事を可擅与之隱謀有之由。近頃高岡藩知事抔に可相成哉与之了簡にて、其取組有之与申聞(キコエ)得も紛々と有之。右樣不容易聞得之事故、先達て以來段々探索仕罷在候得共、何分微臣之儀探索方不行屆、又容易に可泄道理無之、何れにも證據見屆不申ては不相成与存、辛苦仕候得共其手掛無之。併無謂右樣之聞得可之道理も無之事故、尚又配慮罷在候處、都て御政事に不勉勵躰に相聞得候事共多有之。先達て千秋順之助等を初め切腹の人々、固陋過激之所業有之由にて、尤之御處置振には候得共、何も私心は無之躰、御爲筋を存込候心底より過激も致出來候儀に候得ば、御一新之折柄名跡等之御沙汰有之候得ば、士氣も振ひ、至當之御所置与奉存候處、元來本多從五位儀御國事に可盡力心底聊も無之、右樣之儀は總而嫌候事故、厚思召立有之事共を總て奸侫邪智を以妨げ、御布令之御趣意柄不貫徹事而已取計罷在。既に近來洋學盛に相成、尤御採用可之至當之時勢に候得共、右は皇國之大道を本體として建武建國之基とも成皇道之羽翼とも可相成御趣意にて、文久度以來度々御布令も有之處、右從五位儀不大義名分、洋風を主張し玩物而已に執著し、其弊害不少。本朝の重器たる弓劍鎗等之術は、無謂可廢趣向に相成居。御大之儀に候得ば、如何程洋學盛に相成候共、右劒鎗等之術は其儘に被立置、優長之者を以夫々一隊に被定置候得ば強兵之道も相立可申處、聊も其了解無之、洋流を而已主張し、是が爲に諸士異風を好み柔弱に陷り、驕奢淫佚彌増に相成、右等に付弱國之名を受候樣之儀も有之、實以御國威難相立此。先達て以來商法局被立置、商方等盛に相成、右は富國御仁恤等の御趣意にて可御座處、凶荒兵備之御手當を初御國用向悉致不足候哉にも相見得、最早此頃に至候ては、百姓困窮に逼り離叛之心を生じ候樣の次第にて、既に今度越中筋之窮民共所々に致屯集罷在候内、御城下迄も罷越可歎願勢ひ有之處、津幡・石動邊迄も夫々役人指出取鎭有之由。又は石川・河北之貧民共も、多御城下え罷出歎願におよび候儀有之。右等之次第實以不傍觀儀にて、富岡強兵之道不相立。於御家良全不易之美法を猥に變革し、總て御布令之御趣意を忘却罷在候躰。右樣の儀にも不限、諸士不平を懷き候者不少儀も有之。總ての事情は委曲奉申上、聊も御失政無之樣に可仕重職之處、上下之情を否塞し、面諛之者共を撰擧し、御政事を擅に致し、皆以御國害を釀し候樣之所業而已にて、右等之儀は衆人所知にして、三州之士民迄も致惡評、人和を失し罷在。右等之事情、御聞糾し有之候得ば明白成儀。左候得ば、前段不容易隱謀等有之と申聞得も全虚説には有之間敷、此儘打過若々此上大參事等被命候場合に至候ては、彌増我意を可擅は顯然之儀。其上今度窮民共歎願に出候次第等何共不傍觀、暫時も其儘に難行捨置。何れ奸惡巨魁之者に付、指除侯得ば御國家之御爲と一圖に存込、一命を抛私共兩人致主張今度之及所業候儀にて、犯重科候儀何共奉恐入候。
 私共今度迄指出候上書之文中に、本多從五位儀天朝を輕蔑し御政權を致專横候抔と調へ、村井又兵衞(長在)・藤懸十郎兵衞(頼善)・丹羽次郎兵衞(履信)・木村九左衞門(恕)・陸原愼太郎(惟厚)・内藤誠左衞門(誠)・佐野鼎・安井和介(顯比)・關澤安左衞門(房清)、右は國賊共に付可嚴科趣に調有之。右樣存込候顯然之証據も可之。尚更右趣意委細可申上旨御糺被成候。
  前條申上根通之次第にて、從三位慶寧)樣に於て從來朝廷を被御尊奉窮民御仁恤方等を初め總て厚思召を以て毎度御下知之趣も有之處、本多從五位儀右御趣意を致忘却、前段之通り奸惡之者に付、上書に右樣相調。村井又兵衞等九人之者、一人々々に當り證據と申ては無之候得共、右人々は本多從五位に致隨從面諛之奸徒共にて、總て御政事向之致妨害旨等、衆人申處を以て罪状と相心得候儀に御座候。
 私共右樣御爲を存込候は、幾重にも可建言儀にて、先達てより度々厚き御布令之趣も有之候。御採用は有之間敷抔と心得、右御趣意に悖り、一應之不建言今度之及所業候儀は、如何之所存に候哉可申上旨御糺被成候。
  右於私共前條之次第幾重にも可建言心得に御座候得共、段々思慮仕候處、本多從五位執柄罷在候内は、隨從之奸徒共多事故、如何程建言仕候ても御採用無之事に而已取計、却て誠忠之者を致押込抔、御國害に可相成は顯然の儀と、私共一圖に存込、一應之建言も不仕儀に御座候。然上は、岡野悌五郎・多賀賢三郎等尤奉建言等、右從五位執柄以來之舊弊御一洗有之御國威相立候樣、重幾にも御國事に盡力可仕旨豫約諾仕置候事故、私共之本意も可相立と相心得建言不仕儀に候得共、御察當の上は奉恐入候旨申上候處、
 前條段々申上候趣並上書之趣意等にては聊も私心は無之、全御國家之御爲を深存込候儀とは乍申、元來本多從五位は奸惡巨魁、村井又兵衞等九人之者は奸徒と申顯然之証據も無之、人口而已を信じ罷在。千秋順之助等を初被重科候者共之儀は申迄も無之、總而御政事向之儀は厚御趣意柄も有之。且近來物價沸騰當年違作等に付ては夫々御救恤も有之。別て大政御一新に付ては於從三位悉く御深慮被仕候儀にて、御先代樣以來之雖御家法總而御改革在候儀は勿論の儀にて、人々心得違無之樣にと毎度御布令も有之。今度於東京厚被叡旨候御趣意等何茂承知之通に候。尤右從五位儀面諛收斂之者を致撰擧抔と申自由ヶ間敷儀は曾て難出來理、實に御爲を存込候はゞ幾重にも建言等可仕處其儀無之、粗暴至極之及所業、私共國忠と存込候趣意不貫徹、却て厚御趣意柄に悖り、重き御政事向之御手障にも相成、如何計御心外之御儀にて、先以五位之官長を及故殺候族重々不屆至極と御咎。
  前條申上候通之次第にて、御爲を一圖に存込罷在候處、右段々御察當之上は、今更何共無申譯迷惑候。右不屆に付、當八月七日より私共先於刑獄寮牢揚屋え被入置候旨御下知之趣御申渡、奉其意候。
 右之通相違無御座候。以上。
    巳九月(明治二年)晦日                   山邊沖太郎
                            井口義平
      刑  獄  寮
〔金澤監獄所藏文書〕