石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第八節 本多政均の遭難

時に藩士山邊沖右衞門の子沖太郎及び與力井口義平あり。二人は元來從兄弟なるを以て相善かりしが、常に政均の藩政を擅にし私福を張るが故に時事日に非なるものありと信じ、窃かに彼を除かんと欲して友人菅野輔吉及び土屋茂助に謀り、次いで岡野外龜四郎・その弟悌五郎・多賀賢三郎・松原乙七郎・岡山茂等も亦之に與るに至りたりき。是等の中外龜四郎は、沖太郎の擧動粗暴にして所論亦過激、到底大事を爲すに足らずとなし、彼に勸めて外に遊學して知見を擴め、その計畫する所にして眞に國事に益あることを知らば徐に之を斷行するも遲しとせざるべきを言ひ、以てその鋭鋒を挫かんと欲し、己先づ笈を東京に負ひ、次いで屢悌五郎を介して忠告を試みたることを後に法廷に於いて主張し、沖太郎等も亦同一の事實を陳述せりといへども、外龜四部が常に弟悌五郎に書を與へてその意志を沖太郎に通ぜしめ、殊に悌五郎が終始同志の會合に列席したりしもの、頗るその體度の不鮮明なるを怪しまざるべからず。賢三郎・乙七郎・茂の徒に至りては、皆自ら憂國の志士を以て任ずる者にして、沖太郎の陰謀を痛快なりとせしこと固より論を待たざるなり。