石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第七節 北越戰爭

かくて叛亂全く鎭定したりしを以て、東征總督府は二十九日令を發し、諸藩の兵出征の前後を以て順次本國に凱旋すべきを命じたりしが、この時加賀藩兵の各地に屯するもの、津田玄蕃の手兵百九十一人・附屬炮隊八十四人は新發田に在り、山村甚之助の隊兵百四人は千手に在り、横地秀之進の隊兵九十六人は六日町に在り、青地半四郎の隊兵二百二十四人・附屬炮隊七十四人は十日町に在り、今枝民部の手兵百二十八人・附屬炮隊八十九人は大蘆村に在り、堀悌四郎の隊兵百四人・附屬炮隊四十三人は沼平村に在り、津田權五郎の隊兵二百十八人・附屬炮隊四十六人、杉浦善左衞門の隊兵百九人・附屬炮隊二十四人、太田小又助の隊兵百二十五人、田蓬仙三郎の隊士九十六人は並びに庄内・鶴岡に在りき。上記の内山村甚之助・横地秀之進・堀悌四郎等の諸隊は、戰爭中守備補充として派遣せられたるものなり。その他老臣前田直信の手兵百五十人は、越中泊に次して戰線に進むの機を待ちたれども、亂平ぎたるを以て直に師を旅したりき。その後加賀藩は更に編制を改め、駒井清五郎・津田新五郎の二小隊は若松城を守り、寺西梅之助・中村主膳は二小隊を以て若松市中を巡視し、半井全吾・堀悌四郎は二小隊を以て片岡に屯し、横地秀之進・山村甚之功は二小隊を以て坂下を守り、炮四門・炮隊員百三十八人及び監察・軍屬・器械手等百餘人之に屬せり。後又その一部は、十二月捕虜を東京に護送し、一部は翌明治二年正月松代に護送するの任に當る。