石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第七節 北越戰爭

始め官軍の北陸道に於いて長岡を陷れし時、東山道に在りては先づ白川を屠り、次いで棚倉・平・三春・中村・二木松等皆降りしが、唯仙臺・米澤・盛岡・庄内の四は堅く會津と提携して勢甚だ猖獗なりき。こゝに於いて二道の官軍相合して仙臺を襲はんとせしが、當時白川に在りし參謀伊知地正治・板垣退助等、仙臺が枝葉にして會津を根幹とするが故に、須く斧鉞を根幹に加へなば枝葉自ら凋落すべしとき説を立てしを以て、官軍は一隊を仙臺に派して牽制せしめ、主力を以て若松城に迫るに至れり。是を以て會津軍は奮鬪苦戰せしも獨力能く支ふること能はず、九月二十二日降旗を大手門に樹てしに、官軍は藩侯松平容保を城北瀧澤村の妙國寺に移し、二十三日城中の兵を猪苗代に退かしめ、城外の兵は之を鹽川に置きて謹愼せしめたりき。