石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第七節 北越戰爭

津田玄蕃隊は、先きに八月朔日を以て今町に入りしが、六日見附を經て栃尾に進みしに、津田十之進隊・今井久太郎隊も亦この地に在りき。之より津田玄蕃隊は退場・吉谷を過ぎ、九月九日を以て奧州蒲生に入れり。この間に八十里越あり。道程八里に過ぎずといへども、行旅の困難之に十倍するを以て名づくといはる。而して本隊のこゝを通過するや、偶天寒くして飛雪繽紛、夫卒爲に命を殞すものあり。次いで十一日蒲生を發し、十四日山口村に達し、前方入小屋村に臺場を築きて之を守る。然るに二十三日拂曉、敵急に臺場に迫りしを以て、その地に在りし半隊は直に防戰せしが、敵左右の山地に展開するに及び、銃丸後方より飛來して忽ち三人を傷けしのみならず、我が大炮は悉く鵞管を消費したりしが故に、遂に炮車を分解して退却するの已むを得ざるに至り、之と同時に敵は益勢威を加へたりき。この時山口村の本陣には尚半隊の殘留するものありしも、未だ入小屋に戰鬪の起れるを知らざりしが、夫卒の報を得て直に赴援し、且つ急を宮床村なる富山藩兵に告げ、相協力して防禦せり。而も敵は山地に據りて發射し、我が軍頗る苦境に陷りしを以て、火を民家に放ち、焰煙の裡に隱れて暫く銃丸を免れ、次いで我が軍もまた左右の山上に登り、本道と共に挾撃して敵を驅逐したりき。その後敵軍來襲の浮説頻々として至り、飯山兵も亦こゝに駐るの不利なるを勸告せしを以て、津田玄蕃隊は一たび兵を界村に退けたりしが、界村も亦防守に便ならざりしかば、既に日暮れて將卒の疲憊せるに拘らず、再び下山・梁取の間に退きて野營を張り、篝火を焚きて夜を徹せんとせり。然るに飯山・高遠二の兵が大倉に退くに及び、敵は之に乘じて和泉田に入り、我が軍二面に敵を受くるの形勢に陷りしを以て、夜半復背進を初め、天明小林村に着したる後、村端の臺場に大炮及び兵員を配置せり。