石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第七節 北越戰爭

是を以て高田侯榊原政敬は加賀藩の勢力を假りてその危機を脱せんと欲し、閏四月六日使者柴山彌三右衞門を金澤に發遣せり。彌三右衞門加賀藩の重臣に告げて曰く、曩に浮浪の徒多く高田領に入るや、我が兵空炮を放ちて逐ひしに、信州各は之を聞きて、高田が首鼠兩端を持するを以て故らに死傷者なからしめんとせしなりと誣ひ、今や城下を去ること三里なる新井に兵を進めて將に戰端を開かんとしつゝあり。弊は固より大義名分の何たるを知らざるものにあらずといへども、唯從來徳川氏と親善なりしを以て、百の分疏も或は諸藩の嫌疑を解くこと能はざるを恐る。故を以て願はくは貴周旋により、弊の歸順を完からしめんことをと。是より先加賀藩關澤安左衞門野口斧吉二人を派して高田の行動を密偵せしめ、略その官軍に歸順すべきを知りたりしを以て、乃ち彌三右衞門を諭して歸らしめ、急使を越中泊にありし齋藤與兵衞に遣はし高田の請を容るべき訓令を發したりしかば、八日與兵衞は使役成田外鐖助を高田に向かはしめ、翌日榊原氏の邸に就きて爲に周旋せんことを告げたりき。是に於いて加賀藩は閏四月十五日泊に駐屯せる諸隊を進發せしめ、十九日高田に入りたりしが、同日官軍の參謀黒田清隆・山縣有朋は薩長・長府の兵を率ゐて此の地に來り、次いで尾張以下の東海道軍もまた相會せしを以て、共に越後の敵を勦滅せんことを議し、全軍を別ちて一は山道より魚沼郡に入らしめ、一は海道を取りて刈羽郡に進ましむることゝせり。因りて薩長加賀富山等の諸隊は後者に屬し、而して加賀藩の兵は進みて柹崎に陣したりき。