石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第七節 北越戰爭

是より後、朝廷は屢加賀藩に命じて軍需を輸さしめ、また喜びて旨を奉じ、以て尊皇報國の赤誠を披攊したりき。されば藩侯慶寧は先づ金一萬二百五十兩を献納したりしが、五月に至り朝廷加賀藩に命じて金十三萬兩を融通せしめ、内三萬兩は即時之を戰地に輸し、殘額は六月十日以降十日毎に二萬兩を分送することゝし、而してその十萬兩に對しては太政官の發行する紙幣を與へて代償とすべきことを告げ給ひ、は直に之に隨へり。蓋し當時朝命尚未だ北越各地に行はれず、硬貨にあらざれば通用すること難かりしに依る。是より先齊泰は朝に奏し、國に還りて慶寧と議し、大政維新の次第を諭して藩政改革せしめ、慶寧の疾癒えて入朝し得るに至るまで重臣を輦下に留め兵を置きて警衞し奉らんと請ひしが、東北の兵端開けたるを以て朝議容易に之を容れざりしが、六月二日勅を傳へてその歸藩を許し給ひ、力を軍需の充實に致して速かに討伐の功を奏せしめよとの旨を告げ給ひき。次いで同月二十九日又命を受けて味噌五十樽・鹽茄五十樽・梅干三十樽・草鞋二十萬足・空俵一萬枚を送り、七月二十六日白米一萬石を柏崎に輸し、翌日雷管六十萬發・四斤施條炮彈藥數萬包を戰線に輸送すべき命を得、八月官軍五稜廓の賊を攻圍するに及びて、白米九百石を函舘に運漕し、同月二十日又米を越後に送り、九月二十四日草鞋二十萬足を新發田に運び、雷管三十萬發を本營に納れ、十二月四日更に糧米二千三百石・草鞋十七萬五千二百六十三足・空俵六萬九千五百二十枚を本營に致し、その他有の汽船豐島形も官軍の徴發する所となれり。豐島形とは李白里丸をいふなるべし。錫懷丸も同じく徴せられしが、艦の毀損せるを以て之を辭せり。

                              前田加賀守慶寧
 越後表出張之官軍入費として、此度拾參萬兩運輸可之候。彼地未だ平定に至らず、全く正金に無之而者融通不都合之趣有之。依而正金參萬兩今日運輸に相成、十萬金の處は其員數丈け楮幣御渡被置候間、右爲替を以て來月十日より正金貳萬兩宛、十日目毎に越後表官軍出張先へ運輸候樣被仰付候。此節諸方出兵軍資多端の折柄に付、迷惑之筋も可之候得共格別に手段相働、是非共右爲替として彼表え運輸可致樣、厚被仰付候事。
    五   月(明治元年)
〔前田家記〕
       ○

                              前田中納言齊泰
 去月十五日江戸上野山屯集之賊徒勦殲、同十九日越後長岡城陷落、双方捷報相達候と雖も、猶東北各國殘賊跳梁致候趣宸襟を不安候に付ては、兼而被仰出候通何時御出輦御親征可在難計に付、近日在諸侯五十日期限の分も凡て歸國御差留相成居候處、其方諸侯中最第一之雄に有之故、猶更輦穀の下に被留、何時御親征御用筋をも可仰付候處、今般前件之通處々の捷報も有之、大擧勦滅可成功處、費用の爲に勢威相阻候哉と深く宸憂被在候に付、其方急速歸國御暇被仰付、費用之支度精々手繰致し、北越軍旅救助の爲め手配致し、賊徒誅滅不日宸襟を被安候儀、全く其方盡力に可之に付、格別之御見込を以て急々歸國御暇被仰付候事。
    六   月(明治元年)
〔前田家記〕
       ○

 其豐島形、此節越後表へ被相廻候に付、御用向之儀は兵庫軍務官へ可仰出旨御沙汰候事。
    六月三日(明治元年)
〔前田家記〕
       ○

 其所持之錫懷丸、至急御用候間敦賀港へ迅速相廻し、同所軍務官受指圖運輸可致旨御沙汰候事。
    八   月(明治元年)
〔前田家記〕