石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第六節 藩末の改革

この時、は既に徳川軍の敗北したる事情に關し略知る所ありしものゝ如し。何となれば之を文慶雜録に載する所の京都よりに送れる消息によりて考ふるに、その飛脚を發したるは正月五日にして、當時京都金澤間の早飛脚は二日三時の制なりしが故に、七日中には到着したるべければなり。然るに十日に及びて尚且つ進軍を敢行せしめたる所以は、一は徳川軍の敵を以て薩長諸藩なりと誤信したると、一は慶寧が先に慶喜に對して默契せし信義を重んぜしによるものゝ如し、然るに十二日關澤安左衞門房清が前田内藏太孝錫の命により鳥羽・伏見の戰報を齎すに及び、徳川軍が錦旗に抵抗して朝敵の名を負ひたりとの事實を得たりしを以て、乃ち斷乎としてその提携を絶ち、直に命を小松に駐れる村井長在に傳へて先鋒隊を召喚し、次いで朝廷の爲に粉骨碎身して微忠を致さんとの意を上疏するに至りたりき。

 一、當三日夜、幕府方の一手間道を經、山崎街道よりひそかに入之積りに而罷越候處、山崎表長州勢一陣備に固め罷在候に付及一戰幕府方失利下え引退候由。
 一、前同斷夜、薩摩勢三番手迄被切崩既に可敗軍所、藝横合より突入不慮を討候樣子に付、幕府方及失敗、東洞院口より城南離宮邊迄罷越候處、同所社頭森之内より土佐之伏兵起り、幕兵多分被討取候由。
 一、昨四日夕八時頃、御室仁和寺宮甲冑にて騎馬、御先薩州侯藩士と相見え、小具足之上に大紋烏帽子兩士騎馬先拂、兩人之後に甲冑之者太刀を拔持兩行に立並、宮樣左右鐵炮敷十挺に而取圍ひ、御馬先に白綸子金而菊之紋所付候旗二流押立、跡乘騎馬共前同斷、尤嚴重之躰に而大宮通り御下り、伏見か浪華か淀三所に御下りに相違無之哉との噂に候へ共、事情得与不分、猶探索仕慥成儀可申上候。
 一、今五日曉六時頃より、於富之森幕府方軍勢と長州・土州勢与爭戰、幕臣御城下之端より進み、官軍富之森より押寄、互に炮發挑合候處、幕府方火藥盡及敗軍候由に而、八幡山へ引退屯致し候。
〔文慶雜録〕
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 明治戊辰伏見之變。君適(關澤房清)在京師。參政前田孝錫。使君馳報變於金澤。抵小松執政村井長在。率兵數幕府越後榊原侯。亦統兵次于此。將共進。勢頗熾盛。君大驚謂。藩士無状。一至於是。則見長在。説勤王大義。勸其還兵。長在曰。我奉命而發。豈可擅違哉。君曰。然則姑按兵不進。以待再命之至。長在曰。諾。君馳歸。謁公父子(齊泰慶寧。具陳使命。且請二事。曰老公急入覲。曰急還兵。二公嘉納焉。佐幕黨怒其所爲。將歸路而刺。事甚急。余詒君(安井顯比)曰。有事可密議。請急退抵余家余歸。君乃出。刺客果搜索殿中得。轉赴君家亦不得。事遂寢。既而長在還。老公朝京師。皆如君所請。一方向遂定。君與有力焉。
〔安井顯比作關澤遯翁君碑文〕
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 弊勤王之誠意たる趣意は、一躰普天之下王臣にあらざるなし、各主從を約して皇國を奉守護事數百年と雖も、既に氣運挽回王政復古の時に至り候而者、藩士たる者も皇國之御爲盡力協心可致之道理は、中納言齊泰)父子毎に士民に懇諭する所にして、勿論異議を抱く者無之。然るに士風固陋にして廷議を機先に窺ふ事能はず、唯朝廷徳川慶喜の恭順を嘉賞し給ふを聞故に、幕吏の奸を惡むと雖も政權御委託の儀に付斷然拒絶に忍びず。然るに慶喜下坂の上謹愼之躰無之、却而帝都に向ひ發炮仕候に至而者、從前之恭順は全く朝廷を奉欺候實蹟にして、弊に於ても多年誑惑を受け候を悔い、擧國中納言父子懇諭する所に凝結して、朝廷の御爲には粉骨碎身暴を討ち正を擧げ、大政公義の道を盡し君臣の大道を分明に仕度と奮發仕候。弊國情認上候。
    正   月(明治元年)                     加 賀 藩
〔前田家文書〕