石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第六節 藩末の改革

藩治改革の事情は上述の如く、恰も急湍の直流する觀ありしと同時に、朝暮權力の推移は飛泉の斷崖に懸るに似たるものありて、遂に將軍の大政奉還となるに至れり。是より先將軍慶喜は慶應三年六月四日を以て、本年七月以降三閲月の間列と交代して京師警衞の任に當るべきを加賀藩に命じたりしに、慶寧は同月十七日在の邸吏を板倉周防守勝靜に遣はし、書を以て之を辭せんことを請へり。曰く、由來幕府は我がを遇すること凡べて尾水紀の三親と同じくするを法とせり。これを以て曩に文久三年三ヶ月更番警衞の命を受けたることあれども、三親の爲す所にあらざりしを以て先侯齊泰は之を辭せしに、幕府も亦その請を容るゝに吝ならざりき。その後元治元年慶寧の尚世子たりし時朝暮の命を奉じて入洛せしが、恰も病篤きに會したるを以て士卒を留めて禁闕守護に當らしめ、齊泰も亦別に老臣を派し慶寧に代りてその任務を盡くさしめたり。次いで慶應元年幕府長藩に兵を進めし時齊泰は請ひて京師警衞し、二年慶寧の封を襲ぐに及び征長の役尚未だ止まざりしを以て又請ひて之に成したりき。抑輦下一旦變あらば速かに入朝奔走すべきは固より言を待たざる所なりといへども、我が臣僚の喜んでその任を盡くすは、幕府の我を遇すること常に他に異なるものあるを光榮とすればなり。然るに今我をして列と同じく三ヶ月更番の任に當らしめなば、從來享有したる特殊の地位を失ふに似たり。是を以て敢へて之を辭せんことを希ふと。然るに幕府は、その已むを得ざるに出でたる所以を諭して辭退を許さゞりしかば、慶寧は疾を以て長連恭を己に代はらしめ、連恭は七月四日家臣二百五十人を率ゐて金澤を發したりき。當時加賀藩は洛外岡崎村に四萬三千坪の地を借り、假舍を築きて兵士を收容したりしが、八月六日我が邸地として附與せられんことを幕府に求めしに、幕府は之を許したるを以て直に邸をこゝに興造せり。