石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第六節 藩末の改革

加賀藩最後の主たりしものを前田慶寧とす。元治元年齊泰の齡既に知命に達したるを以て、年壯氣鋭の世子慶寧をして時局を處理せしめんと欲するの念甚だ切なりしが、偶慶寧上洛の事ありしを以て遷延し、次いでその異常なる退により罪を獲たるが故に未だその素志を貫徹すること能はざりき。この年十月二十五日安藝侯淺野茂長は、その臣青木保太郎・吉田嘉一郎二人を金澤に遣はして慶寧宿痾の状を尋ね、且つ先に罪を獲るに至りし事情を究め、爲に幕府周旋して救解に努力せんと言はしめしを以て、齊泰はその悃誠を謝して使者を還らしめき。既にして翌慶應元年三月齊泰江戸に覲せしが、十八日本多美濃守忠民を、十九日又酒井雅樂頭忠續を訪ひて口上書を呈し、慶寧赦免に盡力せんことを請ひしに、幕府遂に之を容れ、その譴責せらるゝに至りし理由が禁闕守護を全くせざりしにあるが故に、二十九日書を以て朝廷の内意を窺ひたりき。この書四月十日京師に達せしが、即日朝議してこれを允されたるを以て、將軍家茂は二十六日齊泰に命じて慶寧謹愼を解かしめき。されば安藝侯の盡瘁は、慶寧赦免せられたる原因の全部にあらざりしとするも、亦與りて大に力ありしなるべし。次いで慶寧江戸に召されたりしが、病未だ全く癒えざるを以て之を辭し、明年に至りて命を奉ぜんと請ひたりき。是を以て翌二年二月二十八日村井又兵衞長在・不破彦三爲儀等を率ゐて途に上り、三月十三日江戸に達せしが、この時大坂に在りたる家茂は令を慶寧に傳へて江戸城留守の重任に就かしめ、四月四日先に齊泰の請ひたる退老を許し、慶寧をして封を襲がしむるの命を下せり。

 昨年筑前守(慶寧)儀、於京師病氣とは乍申不都合之致引取、深奉恐入候次第に付愼申付置候。御詫之儀、何分可然御執成可下候。同人其以來之病氣春來少々充快方に罷成、京師引取之始末誠に無申譯趣平に恐縮罷在候。是等之儀厚御汲取、宜御沙汰被成下度奉願候。
    三月十八日(慶應元年)                     加賀中納言齊泰
〔元治元年八月御上京一件〕
       ○

 松平筑前守(慶寧)儀、京師事變之節、病氣とは乍申不都合之引揚いたし候に付、加賀中納言齊泰)より嚴敷爲相愼置、筑前守附屬重臣共取計方不束之儀に付、是又夫々嚴罪申付候旨申聞候に付、筑前守愼永々にも相成候間、最早爲愼置候に不及旨、中納言へ御沙汰可成下と被思召(家茂)候へ共、其地御警衞に付て之儀に付一應及御掛合候。傳奏衆へ被内談、否早々御申越候樣致度、此段申達候。以上。
    三月廿九日(慶應元年)                        松平伊豆守
                                 諏訪因幡守
                                 阿部豐後守
                                牧野備前守
                                 本多美濃守
      松平越中守(京都所司代)樣
〔京都御守護覺書〕
       ○

 今日(四月廿六日)暮合、御用番(幕府)松平伯耆守殿御宅え御家老(加賀藩)御呼立に付、前田將監罷出候處御封物御渡之旨に而、將監より差上(齊泰へ)。右は筑前守(慶寧)樣御愼解之段被仰渡。御居間え又兵衞(村井長在)被召、右之趣被仰聞、御封物拜見被仰付金澤年寄中えは御書を以被仰遺候付、御使御大小將伊藤喜一郎途中指急御使被仰付御渡。筑前守樣えは御年寄使者を以被仰進
〔元治元年八月御上京一件〕
       ○

 筑前守(慶寧)樣御儀、先般以來御愼被仰進候之段、公邊え被仰立候處、不其儀候、就而者早々御參府可成旨、御封物を以前月廿六日被仰渡候に付、其段御使者仰進候。
 右之趣被其意、同役中傳達、組・支配不相洩樣可申渡侯。以上。
    五月二日(慶應元年)                      本多播磨守(政均)
〔舊金澤藩事蹟文書類聚〕