石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第五節 征長の役と南越の陣

耕雲齋の死に就きし翌慶應二年、永原甚七郎・不破亮三郎等曾て事に與りし者相謀り、四月四日追悼の法會金澤の郊外大乘寺に擧ぐ。五月西本願寺浪士の墓標を彼等の刑場たりし來迎寺野に建てんと欲し資をに請ひしを以て、藩侯前田慶寧は金四百兩を與へて工を助けたりき。次いで九月越前に在りし浪士の殘徒にして衣食に窮するもの六人の爲にまた金二百兩を贈れり。明治五年二月甚七郎水府義勇塚を自家の菩提所たる棟岳寺の境内に建つ。八年朝廷耕雲齋等に松原神社の號を授けられ、十一年車駕北巡せしとき祭祀料五百圓をこの神社に下賜せられしも、當時未だ祠殿を有せざりしが、三十一年地方有志等造營の爲に助資を前田氏に請ひしを以て、侯爵前田利嗣は獨力工を竣へ、十月九日その鎭座式を執行せり。
水府義勇隊
 水戸藩士武田伊賀守等千有餘人。有故去國。轉戰數次。遂到越前葉原。請降我加藩軍。以聞衷情於黄門一橋公。後幕府命。伊賀守等百餘人。處刑于其地。實慶應元年二月四日也。其事状有止者。余時管其軍務。鳴呼亦無之何矣。因異日爲之。請受血脈于天徳活宗和尚。瘞之本州棟岳寺境内。以修其冥福云。
    明治壬申歳春二月四日          加賀 赤座甚七郎藤原孝知建
                               寳圓莫道代誌焉
〔棟岳寺内水府義勇塚〕