石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第五節 征長の役と南越の陣

二月朔日田沼意尊、永覺寺に於いて裁判開始す。是に於いて加賀藩の諸將相議して曰く、幕吏浪士を憎惡すること此くの如く甚だしきものあり。想ふにその處罰毫も寛假する所なかるべし。余輩今晏如として彼等の慘状を見聞するに忍びざるを以て、速かに退去せんことを欲すと。乃ち二月三日、江守新八郎隊・關澤安太郎隊・湯原主殿隊・土田宗之助隊・組外並兵士等をして先づ歸路に就かしめ、四日には武田金三郎隊・赤井傳右衞門隊・不破亮三郎隊・小筒方足輕隊また發し、前後總員六百有餘、八日を以て悉く金澤に入れり。而して浪士等の處分に就いては、四日耕雲齋以下二十四人の斬に處せられたるを初とし、十五日に士分百三十人を、十六日に同じく九十六人を斬り、その他三百六人を追放とし、百二十八人を流に處し、百三十餘人を水戸に送還せり。

 二月四日四番牢より大將分國府新太郎一入呼出し、夕方まで歸り之れ無く如何と存じ、其日は雨風強く天地鳴る如し。定めて變事と人々思ひ合せ、牢毎に大將分計り右の通り呼出し、駕籠にのせ連行き歸る人一人も之れ無く、同日大將分二十八人呼出の由。
 同日私共初め助命相成るべき分、敦賀御役所へ一人毎に御呼出し、御尋之れ有り候には、牢中の者牢破して逃去り候趣も相聞え、加州初め公儀を種々恨み候風聞之れ有り候に付、有体申上ぐべき旨御尋之れ有り候へども、左樣の儀一向存ぜずと相答へ申候。

同十五日百三十四人、十六日九十五人呼出しの由承り申候。武田初め呼出しの儘歸る人更に之れ無きに付、定て目駕籠等にて江戸表へ御指送りにても相成候半と存候處、出牢の上夫々承り候へば、いづれも打首相成候由に御座候。

 二月十七日私共生所等御取調に付申上げ、並に押て召連れられ候始末有体に申上候。外に何方の者に候哉、七八十人も助命仰付られ、銘々へ金子一歩づゝ下され、下役の者柳瀬御番所まで送り呉れ、夫より道をいそぎ一昨日一日(三月)歸村仕り候。右送り參り呉れ候下役体の者噂には、御仕置場所は大き成穴掘り之れ有り。右穴三つ今日までに埋り候由承り申候。右仕置場方角遠見致し候處、鳶・烏千羽ばかりむらがりうれひの聲相聞え、只今に至るまで耳に殘り候。一躰の善惡は相辨へ申さず候へども、段々慈愛に預り候儀に付、せめては一遍の回向香花相手向け度と存候。
〔浪士所屬百姓の日記〕