石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第五節 征長の役と南越の陣

この日監察織田市藏書を以て報じて曰く、一橋侯降人を以て田沼意尊に付し、その措置を一任せり。是を以て自今黒川近江守等より傳令照會する所あらんとす。宜しくこの意を領すべしと。次いで二十二日市藏等敦賀に來り、永原甚七郎及び井上七左衞門をその旅に招けり。二人之に應じて至りしに、市藏は、意尊が浪士を糺明する際十人を一團として喚問すべきを以て、各これを縳して出頭せしむべきを命じ、且つ今後浪士の監視を福井・彦根・小濱・加賀の四に分擔せしむるの意あることを傳へき。甚七郎乃ち浪士を縳するは徒らにその騷擾を招く所以なるを以て之を寛大にせんことを請ひ、且つ慶喜にして彼等を意尊に引續きたる上は、加賀藩が當初命ぜられたる一橋侯援助の任務を終りたるものなるが故に、彼等の一部を監視すること能はずとしてその命を固辭せり。二十三日朝廷加賀藩の功勞を賞し、慶喜をして之を傳達せしめ給ふ。既にして幕吏加賀藩が到底警護の任に從はざるべきを察し、二十六日先づ浪士の所有せる武器の引渡を要求せしを以て、加賀藩は監軍調理方石黒堅三郎をして之を幕府の勘定調理役高木哲藏に交付せしめしに、二十七日に初り二十八日晝八時に終れり。同日又監察黒川近江守は、明日を以て浪士を福井・彦根・小濱三の監視に移すべきを命じたりしが故に、永原甚七郎・不破亮三郎・赤井傳右衞門の三將と大島三郎左衞門・井上七左衞門兩監察とは、各寺院に赴きて之を浪士に傳へたりき。耕雲齋等謝して曰く、余輩貴の軍門に降せしより、貴の好遇至らざるなく、厚誼感激に堪へざるものあるも、終に報恩の期なきを憾むのみと。甚七郎之に答へて曰く、余輩無似にして事に慣れず、恐らくは供給全きを得ずして不便甚だ多かりしならんと。遂に共に撫然として袂を分てり。

                             加賀中納言齊泰)家來へ
 浪士共其人數にて護衞罷在候處、永々之儀殊に兼て申立候趣も有之候に付、護衞之儀御免被成、松平越前守(茂昭)・井伊掃部頭(直憲)・酒井若狹守(忠氏)へ被仰付候間、明廿九日移替候條夫々嚴重取計、黒川近江守・瀧澤喜太郎申談次第繰出、同人共支配之向之者受取人數へ引渡候樣可致。尤右体移替候に付ては、浪士共種々浮説等受込騷立候樣之儀有之候ては、是迄行屆候取計も空敷相成候間、食事等相運候下部之者有之候はゞ唯今より立入不申樣嚴重心付、火器等之儀は浪士共へ相與へ間敷は勿論に候得共、尚更火之元等心付候樣可致。尤今夜中より非常爲手當越前守・掃部頭・若狹守人數をも裏手之方へ可指出旨相達候。萬一浪士ども暴動之所業に及び候はゞ打捨候樣可致候。委細之儀は黒川近江守・瀧澤喜太郎より申談にて可之候。
    正月廿八日(慶應元年)
〔水戸浪士始末〕