石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第五節 征長の役と南越の陣

然るに元治二年(慶應元)正月、幕府の若年寄田沼玄蕃頭意尊が將に來りて浪士を糺問する所あらんとし、既に江戸を發して途上に在りとの報を得るや、加賀藩の諸將相議して曰く、意尊は嘗て浪士と常陸に戰ひて敗を取れる者なるを以て、必ずや之を遇するに亡状を極むるなるべし。然りといへども余輩素より浪士に對するに士道を以てせしものなれば、今俄かに幕命によりて彼等を桎梏繋縳するに忍びず。况や余輩は一橋侯を援けて浪士を監視するものにして、其の他の何人よりも指揮を受くるを屑しとせず。如かず意尊の至ると共に速かに監視の任を辭せんが爲、豫め一橋侯の諒解を得る所あらんにはと。永原甚七郎亦深く浪士の境遇を憐み、彼等をして慘虐を免れしめんが爲には、の當局に請うて彼等を封内に拘禁すべく幕府に要請せしむべしと爲し、乃ち諸將に謀りしに、不破亮三郎は直にせしが、赤井傳右衞門はこれを欲せざるにあらざるも、幕威を冐して累を藩侯に及ぼすの虞ありとし、議遂に一致するに至らざりき。是に於いて諸將は、慶喜に謁せしむるが爲に亮三郎を上洛せしめ、又諸將の意見を具して當局の決を取るが爲、大島三郎左衞門を金澤に遣はしゝに、二十日三郎左衞門は廳議の同意を得る能はずとの報告を齎して敦賀に還り、而して二十一日亮三郎は慶喜の容るゝ所となりたりとの結果を得て、同じく陣營に歸來したりき。