石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第五節 征長の役と南越の陣

二十三日一橋侯の老臣松浦加賀守の用人梅澤精一郎來りて慶喜の命を傳へ、永原甚七郎等の勞を慰め賞詞を與へたりき。この日加賀藩降人武田魁介等二百五十九人を移送せんとし、不破亮三郎の隊を先頭とし、三浦八郎左衞門の隊を殿とし、使番吉田清三郎之に隨ひ、八半時葉原を發し、六半時に至りて彼等を敦賀の本妙寺に收容せり。二十四日亦耕雲齋等四百餘人を移さんとし、赤井傳右衞門・三浦八郎左衞門・江守新八郎等を護送の任に當らしめ、新保を發して本勝寺に收容し、次いで翌二十五日には新保・葉原に殘存したる七十餘人と負傷者二十五人とを移し、永原甚七郎・土田宗之助・岡田秀之助佐野鼎等その護送を掌り長遠寺に收容す。是より後、本勝寺は赤井傳右衞門・不破亮三郎、本妙寺及び長遠寺は三浦八郎左衞門・永原甚七郎の各隊警戒の任に當る。浪士の總人員に關しては、耕雲齋の調書に七百七十六人とし、加賀藩の實査には八百二十三人なりとす。思ふに前者は雇傭の雜役を加へざりしなるべし。その他浪士等は乘馬五十二疋・駄馬四十疋を有せり。是より先慶喜は、事既に鎭靜に歸したるを以て二十四日海津を發し、幕府の大小監察も亦二十七日皆歸し、南越の黄塵全く跡を收む。

 今度賊徒降伏一件、格別之御盡力故と御滿足(慶喜)被思召候。彼是長之陣中大儀に付、兩使を以御尋被成候。
    十二月二十三日(元治元年)
〔水戸浪士始末〕
       ○

 我々共國元出發之節惣人數八百人餘有之候處、途中戰死之者は勿論、脱走之族も有之哉之樣奉存候得共、只今惣人數調査之通り七百七十六人に間違無御座候。然處當所へ罷越候て、前書之外四人脱走いたし候。是は十七日前之事にて、於未だ當所前後之御見張無之前に御座候。途中行軍千人或は千五百人・二千人抔と申觸、人數之多少相定り不申儀、全く行軍之習ひ不止事に御座候間、此段御明察被下度以書附申上候。以上。
    子十二月(元治元年)                      武田伊賀守
                                 正   生
      加賀中納言樣御内
        永原甚七郎
〔水戸浪士始末〕
       ○

 一、三十八人    本勝寺祖師堂之内    井田因幡手合
 一、四十一人    同寺内眞光院之内    朝倉彈正手合
 一、四十二人    同寺内堯運院之内    右同人手合
 一、二十四人    同院之内        小野斌男・竹中萬次郎・高野長次郎手合
 一、十二人     同寺内玉樹院之内    安藤繁輔手合
 一、六 人     同寺内堯運院前門番所  内藤昇一郎手合
 一、五十二人    同寺客殿        伊賀(武田)守手合
 一、十八人     同客殿之内       岸信藏・瀧川平太郎手合
 一、五十七人    同客殿之内       井田因幡手合
 一、三十五人    同寺本堂之内      同人手合
 一、二十六人    同本堂之内       高野長次郎手合
 一、四 人     同本堂之内       安藤繁輔手合
 一、三十二人    同本堂之内       竹中万次郎手合
  〆三百八十七人
 一、七十七人    長遠寺本堂之内     山形半六手合
 一、十三人     同寺妙見堂之内     諸手合病人並看病人
  〆九十人
 一、九十六人    本妙寺客殿之内     武田魁介手合
 一、三十九人    同寺客殿茶の間     伊藤鍵藏・原内藏助手合
 一、六十七人    同寺本堂之内      川上清太郎手合
 一、十一人     同寺大乘院之内     長谷川道之介手合
 一、十九人     同院之内        村島万次郎手合
 一、二十人     同寺之内本書院     小栗彌兵衞手合
 一、十五人     同院之内        神山勇手合
 一、八 人     同院之内        武田魁介手合
 一、二十二人    同寺之内要志院     川瀬專藏手合
 一、四 人     同院之内        武田魁介手合
 一、四十五人    同寺之内弓玄院     小林忠雄手合
  〆三百四十六人
  總〆八百二十三人
〔水戸浪士始末〕