石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第五節 征長の役と南越の陣

是に於いて加賀藩は又幕府の意を浪士に傳へしに、浪士は更に書を以て加賀藩の軍門に降を納れんことを請ひたりき。初め浪士等の軍議を開くや、主戰・降服二樣の論頗る紛々たるものありて、山國兵部等は、若し彼等にして降伏するときは幕吏が必ず刀鑊を以て之に臨むべきを以て、寧ろ死を決して諸藩と戰ひ、幸にして生存し得たるものあらば直に長藩に赴き、共に尊攘の大義を唱ふべきことを主張せりといへども、耕雲齋等は、士卒の困憊その極に達したるを以て到底雌雄を決するの勇氣なきのみならず、殊に主君に等しき慶喜に對して抗敵するを欲せざるが故に、假令降伏するも報國の宿志を陳述し得るの勝れるに若かずとなせり。かくて衆議終に降伏に決したりといへども、尚彼等は直接幕吏に對して叩頭するを屑しとせざりしのみならず、その待遇必ず殘忍酷薄なるべきを豫想したりしを以て、故らに加賀藩の保護に倚頼せんと欲したりしなり。加賀藩乃ち之を許し、次いで歸山仙之助を福井藩の陣に遣りて浪士の降伏するに至りし顚末を報じたりき。而して小田原の兵は、この日初めて葉原端に進軍し來れり。

 私共多人數引率是迄罷登り候次第、先般以書取歎願候通り、聊素意上達仕度趣意も御座候處、何分當節之身分に落入候上は、願書等御取上に難相成段被仰渡畏候。然上は事實之行違より移來り候儀とは乍申、公邊御人數と打合(ウチアヒ)候儀も有之、殊に軍裝にて是迄致潛行諸藩動搖候段、實に天下之御大法を犯し不相濟儀、深く恐入奉存に付、尊藩軍門に向ひ一同降伏仕候。何卒此儀可然被仰立、如何樣にも御處置被仰付候樣伏て奉願上候。右樣言上仕候上は、元より決死罷在候儀、聊彼是申立候筋は無之候得共、只々先般奉歎願候通り、如斯成來り候事情は實に其謂も御座候事にて、曾て奉公邊御後闇き意念を懷き、大不敬之擧動相働候儀には無之候處、今更空敷流賊之汚名を相蒙り候樣にては、千載之後死して遺憾ある儀に御座候間、武門の情け此段尊において別て御酌取、宜敷御辯解成下候樣奉願候。決死之一語他に申立候儀無御座候。以上。
                            武田伊賀守
    元治元年子十二月                   正   生 在判
      加賀中納言樣御内
        永原甚七郎殿
〔水戸浪士始末〕