石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第五節 征長の役と南越の陣

十五日また監察織田市藏は、葉原に來りて加賀藩の勞を犒ひしが、實はその動靜を視察せんが爲なりしなり。市藏乃ち永原甚七郎を引見して曰く、先に浪士の提出したる三通の書は、皆その宿意を主張したるものに外ならず。若し卿等彼の請ふ所に拘泥して、留陣數日に亙るが如きことあらば、當に事を處すること緩漫にして時機を逸するの譏を免る能はざるべし。速かに各に牒して敵と雌雄を決するの擧に出でずんば、如何ぞ大たるの面目を維持せんやと。甚七郎乃ち應へて曰く、謹みて命を聞けり。然りといへども卿等我が軍を以て躊躇逡巡するが如く考ふるは、實に恠しむに堪へずといふべし。抑余輩の孤軍を提げて深く敵に迫るものは、固より戰歿を期するを以てなり。而も尚未だ戰を開かざるは、別に理由の存するによる。卿試みに之を思へ。今余輩の兵は敵の衆きに及ばず。然るに小田原は屢促せども陣を進めず、背後を扼する福井藩も亦頗る狐疑の色あり。此の時に當りて余輩獨戰を挑まば、浪士の戰線を突破して逃走するもの甚だ多かるべく、若し彼等にして直に進みて輦下に迫らば、天下の動搖を來さんこと察するに餘ありといふべし。特に浪士の陣する新保は山間の一寒村なるを以て、諸藩の齋しく來り圍むに至らば、彼等糧食の缺乏に苦しみ、戰はずして降伏せんこと必せり。これ今日我が攻撃を急にせざる所以なり。况や彼等の既に信義を示して、疎暴の擧あることなきに於いてをや。然るに強ひて之に斧鉞を加ふるが如きは、果して武門の名譽なりと爲すべきか。且つ先に大津の本營に會議の開かれしとき、戰と不戰とは時宜に隨ひて各隊長の裁量に一任せられたるに非ずや。是を以て余輩浪士の明らかに降意あるを認め、義を重んじて敢へて兵を動かすことなきも、鎭撫の功を奏するは却りて干戈を交ふるよりも速かなるべきを信ず。然るに卿深く之を察せず、我が士卒を目して怯懦なりとなさば、藩侯の威武を冐瀆するの恐あるを以て、余輩は事の利害に拘らず直に卿の命に隨ひて一快戰を試みんと欲す。請ふ卿暫くこゝに駐りて余輩戰死の状を檢せよと、辭色頗る激越なりき。市藏乃ち慚愧して曰く、卿の言ふ所實に理あり。余固より貴の士卒を以て優柔事を爲す能はざるものと信ぜざるも、唯外間非議するものあるを以て試みに言へるのみ。卿が今縷述せし所は歸りて之を一橋侯に傳ふべく、而して攻撃の期は延べて明後日となすべし。その間若し樽爼折衝して彼等を降服せしむるを得ば、これ即ち鎭撫の目的を達するものたるが故に決して無謀の戰端を開くこと勿れと。是に於いて十七日朝五時を以て總攻撃の期と定め、これを隣軍小田原・福井兩に報じたりき。然るに十六日大監察瀧川播磨守等は、書を加賀藩の營に致して速かに賊徒を逮捕すべきことを命ぜり。これ市藏が攻撃の期を定めたる報知の尚本營に達せざりしに因る。

 此程申達候通り、諸手申合賊徒迅速打捕候樣、尚又中納言(慶喜)殿被仰聞候に付此段申達候。以上。
    十二月十六日(元治元年)                    由 比 圖 書
                              瀧川播磨守
     加賀中納言殿
        重 役 中
〔水戸浪士始末〕